小学生の時に書いた「将来の夢」が人生を変えてくれたのかもしれない
子供の頃は「夢は何?」「将来何になりたいの?」と聞かれることが多い。大人になると「趣味は何?」と聞かれることが多くなる。
私には夢も趣味もない。昔も今も無かったし、特に必要だと感じることもなかった。
TVなどでコメンテーターが若い人を集めて、夢について語っているのを見かける(NHKの番組のように)あのような夢の押し売りか押し付けは、あざとい気がして仕方ない。夢って何だろう???
そんな私も一度だけ夢について書いたことがある。
確か、小学校3年生か4年生の頃だ。
当時の先生が、毎年恒例の「夢」について生徒に書かせる授業があった。大体、その年齢だと、医者だったり、公務員、プロ野球選手、サッカー選手、歌手、お花屋さんなど親に押し付けられたものか、またはテレビや近所で見てイメージが良いものが候補に挙がる。
私には、そういった具体的なイメージはなかったので、お題が出るや否や、最初に原稿用紙を持って先生の所へ向かった。
「これでいいですか?」私は自分の書いた原稿用紙を先生に渡した。
先生はチラッと私の回答を見て、少しだけ頷いた。先生はずっと下を向いていたので、その時の表情は記憶にない。
私が机に戻ると、先生は立ち上がって、教室の全員に言った。
「みんな、こういうことを書いてください! 歴史に残る人間になりたい!」
何故そこで先生が全員に夢の在り方を指導したのかは分からないが、私の回答は「歴史に残る人間になりたい」だった。
その時、私は、そういう夢でもいいんだ、と感じたのを思い出す。それまでは具体的な職業を夢として定義されていたのだが、それ以外の回答でも問題ないのだ、しかもそれがより良い回答だという意見もあるようだ、と…
理由は分からないが、その時のことが、ずっと忘れられないでいる。当時の記憶はそれ以外何も覚えていない。先生の顔すら覚えていない。
しかしながら、夢に関するたった一つの回答が、私の何かを変えたし、その後の心の支えになっている気がする。
たった一つの出来事が人生の羅針盤になることがあるのかもしれない。
一つだけ残念なのは、私が未だに歴史に名前を残せていないことだ。しかしながら、それなりに満足できるところまではいった気がするし、今のところ自分の人生に後悔はない。
「夢」が必要かどうかは分からないが、何か想いのようなものがその人を突き動かしているのは確かなのかも知れない。
あなたは伝説のコメディアン レニー・ブルースを知っているか!?
第二次世界大戦後の世界は、今のように言論の自由がなかった。それは民主主義を謳歌していたアメリカでも同様だ。
そこに、母親のいない貧しい家庭で育ったユダヤ人が、過激なマシンガントークで全米の注目を浴びるようになる。それがレニー・ブルースだ。
ダスティン・ホフマン主演の映画「レニー・ブルース」は彼の半生を綴っており、感動以上の何かを感じる作品である。かのビートたけし氏も、レニー・ブルースに憧れて模倣したと言われている。
レニー・ブルースの凄いところは、偽善が全くないことだ。当時タブーだった過激な放送禁止用語を使い、差別・宗教・政治など何もかもを剥き出しにして社会を強烈に風刺し、笑いのネタにした。そんな彼は警察に睨まれ、ライブの度に警察がステージを取り囲むことになる。
レニー・ブルースは何回も逮捕され、法的な弾圧を受けながらも自分のスタイルを崩さない。そんな彼から周りの知人、友人はどんどん離れていく。
彼は幼少期と同じく、また孤独になる。子供の頃の彼はラジオだけが友達の孤独な少年だった。
レニー・ブルースは、次第に麻薬に溺れ、下積み時代に結婚したストリッパーとも離婚してしまう。ステージ以外での、私生活のレニーは完全な敗北者で、憐れみすら感じてしまう。
そして、ついに彼は裁判で有罪判決を受けることになる。
もう裁判で戦う気力も体力も残されていないレニー・ブルースに対し、各界の著名人は公式の場で判決に対する異議を唱えることになる。
この時を境にして、世界の言論の自由の歴史が動き出す。
悲しいことに、レニー・ブルース本人は、その後すぐに、40代の若さで亡くなってしまう。
最後にステージで、彼は叫ぶ
i'm not a comedian. i'm lenny bruce!
「オレはコメディアンじゃない!オレは、(ただの)レニー・ブルースだ!」
彼はコメディアンの枠を超えた、言論の自由の使者だったのかもしれない。
ブログを始めて1ヶ月間の変化と、私が気付いた3つのこと
本日でブログを始めて1ヶ月となりました。いつもご拝読頂き有難うございます。
本日は1ヶ月間でやってきたことと、それにより気付いたことをまとめたいと思います。
これまでの経緯と変化
1週目
私がブログを始めたのは、11月の連休の最終日で、丁度暇だったからです。初日に旅行の写真を次々とアップし、旅行記を記録するのが目的でした。
しかしながら、1日ではてなフォトライフが一杯となり、旅行記も書き切り、翌日から自分の考えをまとめる場所へとシフトしていくことにしました。
2週目
当初は、全く読者がいない状態でしたが、1週間もすると読者数が毎日10名くらいになりました。また、読者登録してくれたり、★をくれる方が出てきました。
この頃から、私は興味本位で他の人のブログを読むことになります。運良く、★をくれたり読者登録頂いた方が人気ブロガーだったために、この読むという行為が私のブログを大きく変化させました。
私が最初に参考にしたのは、初期に読者登録頂いた「ちるど(cild)」さんの「散るろぐ」でした。
3週目
読んでもらう為の工夫をするようになり、徐々に読者数が増え、この頃には1日300-500アクセスとなりました。
4週目
そこで、私はブログの内容を変えて、体験談を書き始めました。それ以降アクセス数も5千を超える日も出てきました。
そして、1ヶ月目を終えて、私が気付いた3つのことです。
1.「書く」とは「伝える」こと
色んなブログを読んでいると、読者を意識していないものが多い気がします。
まず100%の自己満足で書いてない限りは、そこに読者が存在しているので、読みやすい文章である必要があります。
- 余程文章が上手い人や読みやすい(滑らかな)文章を書ける人以外は、出来るだけ簡潔にまとめた方が良いと思います。最後まで読み切れる記事は思った以上に少ないです。
- 見出しなどを使って分かり易くする。これも記事にアクセントをつけて読みやすくしたり、また飛ばし読み出来るようにしておくと逆に読みやすくなります。
伝えることを目的にした時点で、ブログはコミュニケーションの手段となります。それがブログの面白さなのかもしれません。
2.他の人のブログをどれだけ読んだかが大切
他の人のブログを読むと様々な発見があります。人気ブロガーでも開始当初の記事はあまり読まれてなかったり、そこから色んな工夫がみられたりします。
また、面白い記事なのに余り読まれていないブログも多いです。自らが色んなブログを読んで、読み終わったら★を付けて、その方々に訪問してもらうことにより、自身のブログに読まれる機会が増えます。まずは読んでもらうことが大切だと思います。
その為には、読むことです。1つ書いたら100個読む、を1週間繰り返すと自分のブログが変化していることに気付きます。
3.自分のブログの最大の読者は自分自身
途中から、私はブログを通して、希望や勇気みたいなものを伝えたいと思い始めました。その結果、気が付いたのは、一番希望や勇気をもらっていたのは自分自身でした。
他の人のために書く努力(伝える努力、読む努力)は巡り巡って自分に返ってくるのだと思います。
仕事もそうですが、相手のことを最優先で考えることが、最も自分の利益となります。
本質的なことはブログも同じなのかもしれません。
では、明日から、また投稿します!
よろしくお願いします。
過去の体験談を時系列に整理してみたら、親への感謝の気持ちでいっぱいになった。
先週、体験記をアップして以降、大変多くのアクセスを頂けるようになりました。
読んで頂いた皆様、有難うございました!
本日は、そんな体験記を時系列で整理してみたいと思います。
体験記を整理しようと、改めて過去のエントリーを読み返してみると、懐かしい気持ちと一緒に両親への感謝の念がこみ上げてきました。
私が金銭的に困った時に、決して裕福でない両親に度々援助してもらい、そのお蔭で今があります。そのことに改めて気付きました。
アメリカへ渡った時の記憶
今になって両親の気持ちを考えるようになりました。当時は自分のことしか考えてなかったので、ある意味ブログを始めた最大の功績がこれです。
あの時両親は、何を想い、何を考えていたのだろうか? - 自由を求めて、世界を周る
アメリカへ渡った当時の記憶
初めての海外に加え、初めての一人暮らしは刺激的で、ホームシックを全く感じてませんでした。それがチャーハンを食べた途端に急激に感情がこみ上がってきました。
未だに忘れられない、人生で最も感動した食事です。
アメリカの田舎町からカリフォルニアを目指す
アメリカの田舎町に留学していた私は、その生活に疑問を感じ、誰にも相談せずにカリフォルニアを目指します。
金がないので、グレイハウンド(最も安い交通手段)を使い、更には、周遊券で一ヵ月間かけて色んな街を訪れていきます。バスで寝る生活を続けて、疲れ切った時に見たカリフォルニアの海の姿は未だに忘れられないです。
周りの人みんなに心配をかけてしまいましたが、人生初めての冒険は私を少しだけ大人にしてくれました。
19才の時にグレイハウンドでアメリカを横断した話(何故バックパッカーを愛してやまないのか?) - 自由を求めて、世界を周る
世界の中心NYを目指す!
カリフォルニアで夢と現実の壁に打ちのめされた私は、迷わずNYを目指します。
NYの学校へ編入したまでは良かったのですが、生活費がなく、ハーレムの南のぼろアパートに住むことになります。そこでの体験と、そして学生寮へ引っ越した際に出会う私の人生を変えた親友の話です。
彼がNYを去った後に、私もアメリカを去ることになります。結局、私はアメリカで学生生活を全うできませんでした。しかしながら、それ以上のものを手に入れたと思っています。
ニューヨークで私は人生の全てを学んだ - 自由を求めて、世界を周る
実家の倒産と失意のスペイン
帰国後、私の実家が倒産し、家族が離散し、私は失意の中NYで出会った親友の地(スペイン)へ向かいます。その時に見た景色は一生忘れません。
私を絶望の淵から救ってくれました。
実家の倒産、家族の離散から再スタートまでの物語 - 自由を求めて、世界を周る
ロサンゼルスで再スタート、結婚、離婚、幸せは儚い
スペインから帰国後、私は就職します。何とか見つけた仕事はLAでの旅行代理店のクレーム処理でした。私はそこで奮闘し人生を軌道に乗せます。結婚もし、これで幸せに手が届いたと思った矢先に。。。幸せは常に儚いのです。
ロサンゼルスで航空券の販売をして、人生の儚さを知った話 - 自由を求めて、世界を周る
株式上場を目指し、ベンチャー企業設立!
離婚して全てを失ってからの私の人生です。
株式上場を目指して意気揚々と会社を立ち上げたのが、つい最近のような気がします。もう10年くらい前の話だと考えると、時の経つのは早いですね。。。
離婚と会社の解散で途方もない地獄を味わいました。これが今の人生に役立っている気がしています。
離婚して全てを失った私が資本金1億円の会社をつくるまでの軌跡 - 自由を求めて、世界を周る
会社の解散から現在に至るまで
現在の状況に至るまでの経緯です。まだ現在進行形なので懐かしい気持ちはないですが、つくづくラッキーだったと思います。
度重なる失敗を乗り越えて、自由を手に入れるまでの話 - 自由を求めて、世界を周る
そして、旧友を再訪問
昨年、人生の節目で、必ずコンタクトしている旧友に会いに行きました。何か夢がかなった気分でした。
それからは、今がずっと続けばよいのに。。。と本気で思って毎日を過ごしています。これからやり残したことを少しずつ実現していく予定です。
人生の分岐点で再びのスペイン(出会ったあの頃と同じ位置にいる) - 自由を求めて、世界を周る
最後に
改めて整理してみると、色んな事があったし、色んな人に助けてもらったし、自由奔放に生きてきて、何とかなっているのはやはり運が良かったのだと思います。
田舎の長男に生まれて、両親は多分、私に地元で公務員にでもなって欲しかったのだと思います。それを全く違う人生を選択し、親孝行もせずに生きてきました。
それなのに、何も言わずに、私が困った時は助けてくれた両親に感謝せずにはいられません。私が親になった時に、同じ対応が出来るかと言われると何とも返答のしようがないですが、どういう訳か両親は私を信用してくれていたのだと思います。
それは、自分の育て方を信用していたとも言えます。今頃になって両親の愛情を感じる機会が出来たことを大変有難く思います。
両親については、また次回書きたいと思います。
度重なる失敗を乗り越えて、自由を手に入れるまでの話
チャンスは幸運と同じでサイクルだ。
ただし、普通には手の届かない距離をぐるぐる周っている。掴むためにはタイミング良く手を伸ばすしかない。
前回のエントリーの続き(最終話)です。
離婚して全てを失った私が資本金1億円の会社をつくるまでの軌跡 - 自由を求めて、世界を周る
会社の終焉
会社にとって株主構成は、生命線だ。
特に社員が居なくなった会社は、単なる金融商品となり、役員と株主の間で様々な駆け引きが繰り返される。
私は会社の役員1名と株主1名に振り回されて、解散まで地獄のような日々を過ごさざるおえなくなった。夜思わず発狂しそうになったり、シャンプーすると大量の髪が抜けていたり、血尿になったりと、そんな状態が会社の清算が完了するまで続いた。
それでも何とか対処できたのは、今までにもっと大変な状況を経験していたからだ。神様は、私の敵なのか味方なのか、理解し難い。
新たな出発
会社の残務や清算処理は私の収入にはならない。その為、私は空いた時間を使って収入を得る必要があった。
私が唯一幸運だったのは、独立したことにより業界に知人が沢山でき、また評価してくれる人達がいたことだ。
会社や事業の再生案件の問合せや相談が舞い込んでくるようになった。そのほとんどが資金繰りに起因するものだ。ITベンチャーの経営者は専門職上がりのため資金繰りが苦手な人が多かった。
数ヶ月もすると、仕事にも慣れて、案件も幾つかのパターンに分けられるようになってくる。そこまでいくと不意に考えてしまうのだ。
もっと何とかならないかと。。。
このままでも生活していくことに支障はない。それどころか、サラリーマン時代よりも収入は増えているので、私の独立は全くの失敗ではなかったようだ。
しかしながら、これだけ悩んでいる人がいて、その相談が来て、私が対応できるとなると、これはチャンスではないのだろうか??
では、そのチャンスは一体どこに隠れているのだろうか。
チャンスをつかめ!
そんな時期に、私はある会社を紹介された。業界の変化に追いつけず資金繰りにあえいでいた専門学校だ。
私は、その会社のガンになっている事業を自分が新設する会社で引き継ぐことにした。
従業員5名と資金ショートした事業が、私に再起のチャンスを与えてくれた。
設立当初から半年はずっと資金繰りとの戦いだった。銀行や取引先とのファイナンスで何とか乗り切って、事業は次第に軌道に乗っていった。
長引くデフレの影響で、専門学校や教育業界は大きな転換期をむかえていた。そして、そのタイミングで始めた事業が、業界の変化を先取りし、会社に大きな利益をもたらすことになったのだ。
私はついていた!でも、喜べない。少し前の会社を解散した時の記憶が私を不安にさせていた。
ここから先は組織運営や人間関係の問題に直面するだろう。その時に備えて、私にとっての最善策を考える必要があった。
チャンスの次は、挑戦
私は、会社を元のメンバーに売却し、一人になることを決めた。
一人になって、ここで確立した事業を、やり方を変えてスケールさせようと考えた。
私は事業の仕組みを作るのが得意だ。一人になった私の新会社は、新たなスキームで更に多くの利益をもたらしてくれた。
計画通りどころか、恐ろしいほど良い結果となったのだ。
一人で事業を進めていくということは、自分の出来ること、やるべきことを決めるのではなく、自分がやらないことを決める必要がある。決断したり選択したりすることは、何をやるかではなく、何をやらないかだ。
そして、必要な会社と必要な役割で協業することにより、そこにははっきりとした契約関係が存在することになる。それがビジネスにとって健全で、その結果、私は自分の利益よりも顧客の利益を最優先していくことができる。
それが新たな利益に結びついていく。ビルゲイツの言う、良いサイクルの始まりだった。
そして、現在
あれから4年半、私は事業の利益を再投資することにより更に大きな利益を得ることになった。やっと自分が思うようなライフスタイルに手が届くところまで辿り着いた。
海外旅行も行ったことがない田舎の青年が渡米してから25年、
NYで私に最も影響を与えてくれた親友と出会ってから22年、
父親の会社が倒産して逃げるようにスペインに行った時から約20年、
ロサンゼルスで再起して、結婚して、離婚してから約10年がたっていた。
これからは、私の新たな旅の始まりになる。
私は、昔ロサンゼルスでやったのと同じように徐々に事業から投資にシフトしていき、現在は事業ではなく旅行に夢中になっている。
何も知らない街を一人で歩いていると、何だか自由を手に入れた気持ちになる。
「自由を求めて、世界を周る」それが、今の私の生き方となっている。
最後に
人類は、多くの困難を乗り越えて、現在の繁栄にたどり着いた。繁栄は常にリスクと隣り合わせだ。
私にも、今後新たな困難が待ち受けていると思う。それは投資の失敗かもしれないし、健康や精神的な問題、家族の問題かもしれない。生きていくのは大変なことばかりだ。しかしながら、時々訪れる少しの喜びのために前を向いて歩み続けるのだ。
路の途中で振り返ると、そこに見える景色はいつも美しい。過去は常に美しい記憶となって私の今を支えてくれている。
それがあるから、みんな生きていけるのではないだろうか。
路の先にある僅かな希望と、振り返った先にある美しい記憶、その二つに挟まれて私は歩き続ける。
(完)
ご拝読頂き、有難うございました。
【補足】旅の途中の私です↓
人生の分岐点で再びのスペイン(出会ったあの頃と同じ位置にいる) - 自由を求めて、世界を周る
離婚して全てを失った私が資本金1億円の会社をつくるまでの軌跡
今日は、前回のエントリーの続きを書きます。
ロサンゼルスで航空券の販売をして、人生の儚さを知った話 - 自由を求めて、世界を周る
人生で一番大変だったことは何かと聞かれれば、離婚だと答えるだろう。
そのくらい離婚には膨大なエネルギーが必要だった。
結婚生活
私たち夫婦は、投資中心の生活に移行してから、日本に越して来た。
その後、暫くは静かな時間が流れていた、と思っていたのだが、妻が突然アメリカに戻りたいと言い出した。
やはりジャーナリストとしてのキャリアを積みたかったらしい。
彼女は、飛び級で大学に入って、その後奨学金で大学院を卒業した。
アメリカのジャーナリストは過酷で、アメリカの大統領に質問している記者の年齢を見れば分かる通り、上り詰めるまでに長いキャリアが必要だ。
私と出会った当時は、そんな現実に嫌気がさしていた。
人生は、その時の状況によって思わぬ決断をしてしまうことがある。そして、突然現実に目覚める。
彼女は、きっと全く知らない国で暮らしてみて、目が覚めたのだと思う。
私は、当時の状況がずっと続くことを願っていたし、人生最初の平和な時間を壊したくはなかった。だから、彼女と一緒にアメリカで再チャレンジする気はなかった。
お互いの考え方の違いが、気持ちのずれになり、そのうち修復不可能な状態にまで悪化していった。
離婚
私は、何かの決断を下さないといけないと考えた。
私は、全ての財産を彼女に渡して家を出ることにした。
彼女は、簡単には離婚を承諾してくれなかったが、それでも今後生活するには十分な資産を手にしたので、アメリカへ帰って再びキャリアを積みながら生きていく決断をしたのだと思う。
最後の日、私は自宅のある広尾から渋谷まで、ただ茫然としながら歩いたのを思い出す。言葉にできない何とも言えない感情だった。
殆ど荷物も持たず、所持金は500円しかなかった。渋谷で知人と会ってお金を借りて、その後家族からもお金を借りて、そして都内で新生活を始めた。
ゼロからの再スタート
暫くは、何もできないくらい無気力な状態が続いたが、働かないと食っていけない。私は、次々と仕事の面接に応募していった。
日本では仕事がなく、ロサンゼルスに渡った当時との違いは、日本にもITの波が押し寄せていたことだ。
しかしながら、日本は、私のようにレールを外した人間が簡単に就職できるような社会ではない。私は、いくつも面接を受けて、何とか小さなベンチャー企業に採用された。
設立して間もないIT企業は採用に困っていた。その会社にはシステム部と営業部があったが、スキルのなかった私はどちらの配属からも外され、それ以外の業務(広告や秘書業務や企画など)を行う部署にまわされた。
運が良かったのは、その会社が将来的に上場したことと、私が多少上場の準備にもかかわれたことだ。
転機
当時は、i-modeがものすごい勢いで成長していた。私が就職した会社はPCでメディアを運営していたが、新規事業としてi-modeへも参入した。会社にはモバイルの担当部署がなかった為に、無所属の私が担当となった。
これが、私の転機となった。
i-modeサイトは時代の流れに乗って成功し、私はその実績をもって転職することとなる。
私のようなバックグランドの人間は実績がないとどこも雇ってくれない。その為、転職するチャンスはその実績が最も生かせるタイミングしかない。それがその時だった。
まだ、就職して1年も経っていなかったことと、会社が上場準備に入っていたために、周りからは、何で?と言う意見が多かった。
ITの世界では早く動いた方が勝ちだ、私はそう信じていた。
私が子供だったころの日本は、年功序列、終身雇用を中心としたじっくりと生きていく時代だったが、私が帰国した時の日本は徐々に変化の時代に突入しようとしていた。私がアメリカで体験したIT時代の到来だった。
私は、何の後悔もなく、より大きい会社へ転職していった。
給与は1.5倍以上になった。そして、元大企業だったその会社ではあらゆるスキルを身に着けることができた。契約書からビジネスデベロップメント、会社の分割、合弁、上場と何でも経験できた。
スキルがあって初めて自分の能力を生かすことが出来る。
よく能力とスキルを混同している人を見かける。そういう人は、必ず能力が上手く発揮できていないことを悩むことになる。
自分にどのような能力があって、それをどう生かしたいかによって必要なスキルは変わってくる。もし、自分の能力について何も分からなければ基本的なスキルを順に身に着けておく必要がある。
私は、ITの世界で再びチャンスがあると思い、その為のスキルを身に着けたいと考えていた。
3年かかった。
入社から3年して、私はグループ内の新会社への転籍のタイミングで、会社を辞めることを伝えた。
目的は、独立だ。
独立
自分の能力とスキルを上手く組み合わせることにより社会で食っていくことが出来る。ただし、それだけではより多くの収入を得ることは出来ない。
例えば、スポーツ万能の人間がいたとしても、どのスポーツで、更にはどんな役割やポジションでプロになるかによって、収入が大きく変わってくる。
そうだ、どのフィールドで働くかが重要なのだ。
私は、退職するまでの間に、自分の登る山を見つけていた。
それによって、『能力+スキル+戦う場所=高収入』の方程式が完成したことになる。
私は、独立後、2つのことをした。
一つは、会社を設立して軸となるIT関連の事業を立ち上げる準備を始めた。二つ目は、当時流行り出していたWEB2.0(現在のソーシャルの原型)に関する技術を企画し、その特許を申請した。
このような出始めの概念は、とても曖昧で、みんな手探り状態だ。私はそのタイミングを狙って、特許申請後にプレスリリースを配信した。
1億円を調達する
それから数日後、いつも通りに当時借りていたレンタルオフィスへ出勤すると、伝言が山のように机に並べてあった。全てベンチャーキャピタルなどの投資会社からだ。
何が起こったのか最初は分からなかったが、私のプレスリリースが某有名ポータルサイトのトップニュースに載ったらしい。
私は複数の投資家などと会って、最終的に事業シナジーのある会社数社から1億円近くを調達した。
役員を構成して、社員を採用して新事務所を借り上げて、何もかもが順調だった。一つのことを除いては。。。
会社の終焉
会社は、事業モデルも上手くまわり、資金も潤沢で、一見何の問題もなさそうだったし、投資家も取引先も誰もが上手くいくだろうと考えていた。
ただし、会社には大きな問題があった。
人間関係、コミュニケーションだ。
私を中心に役員間のコミュニケーションが時間と共にずれていった。
その間、会社は成長し、会社を評価するための評価額も5億円以上になった。
私は、その会社の60%以上を保有していた。3億円だ。300万円で設立した会社は1年で100倍になっていた。
結果的に会社は2年もたなかった。
私は、会社の解散を株主総会で決める際に、自分を含めた役員の株式を投資家へ譲渡し、そして解散することにした。そうすると株主だけで会社の資産を分配することが出来る。
私のせめてものお詫びだった。
その代償として、私は全ての財産を失った。
その時私は30代の後半に差し掛かっていた。
神様は微笑まない
この日から、私の地獄の残務処理と再起への挑戦が始まる。
この時点では、私は、ただ落胆するだけで、その先にどんな未来が待ち受けているか想像すらできなかった。
人生は、何が起こるか分からないのは今までの経験で理解ていたつもりが、まだ逆転のチャンスが残されていたとは考えもしなかった。
チャップリンの言葉に、
人生に必要なものは、夢(希望)と勇気とほんの少しのお金だ。
と言うのがあるが、その時の私は、その中の何一つ持ち合わせてなかった。
つづく
※最終話完成
度重なる失敗を乗り越えて、自由を手に入れるまでの話 - 自由を求めて、世界を周る
ロサンゼルスで航空券の販売をして、人生の儚さを知った話
チャップリンの言葉を思い出す。
人生はクローズアップで見れば悲劇、ロングショットで見れば喜劇
もしかすると、私の人生のことかもしれない。
今回は、倒産の後にスペインから帰国した私の人生について書きたい。
実家の倒産、家族の離散から再スタートまでの物語 - 自由を求めて、世界を周る
私がスペインから帰国後、何とか見つけた仕事は、ロサンゼルス空港の近くにある旅行代理店だった。会社が保有している空いた部屋に住み、会社の車で通勤し、朝から晩まで働いて、手取り5万円くらいの契約だったと思う。
今の時代だとブラック企業だ。そういう意味では、私は時代を先取りしていたのかもしれない。
就職先は、ロサンゼルス
当時の日本は大不況で、私を採用してくれる会社はなく、私は二つ返事でLAへ飛んだ。何故そんな私を採用したかと言うと、彼らはクレーム処理要員を探していたのだ。
その旅行代理店は、LAの日系代理店としては大手で、東京にも支社があった。格安航空券販売の走りで、全盛期は月間2億円以上の販売高をほこっていたのだが、競合の増加と過剰投資で倒産寸前だった。
社長は、身内に別会社を作らせて、その会社で金銭トラブルの対応をしようと考えていた。そこへ何も知らない私が、藁をも掴む形相で面接に来た。願ったり叶ったりとはこのことだ。
それでも、全盛期に購入したコンドミニアムや車は、まだ使用できる状態だったので、私のLA生活はまんざらでもなかった。
仕事も、狭いオフィスに私しかいない時間が長く(社長は一日数時間会社に来て、航空券の問合せに対応するくらいだった)、私は時々訪ねてくる航空券の卸会社の人と話したり、目の前のコンピューターを叩いて航空券の価格を調べたりしていた。
毎日クレームらしいクレームもなく、私は日々増えていく航空券の知識を振り絞って一ヶ月目で航空券の販売を一人で出来るまでになっていた。
そんなある日、私は良からぬことを思いつく。
新たな安売りビジネスで運命を引き寄せる!
当時の航空券業界は、エコノミークラスの利益をギリギリまで削って格安航空券の販売競争をしていた。利益をどこから得ていたかと言うと、ビジネスやファーストクラスだ。ここの利幅で会社が成り立っていた。
そこへシンガポール人が、こっそりと、ビジネス・ファーストクラスの航空券のディスカウント販売をしていることを知った。
その手法はこうだ。航空券は、出発地と到着地で価格が決まる。例えば、LAと東京の往復よりLAと台湾(台北)の往復運賃の方が安いのだ。
そこで私は、LAから東京を経由して台湾行きのチケットを販売することを考えた。そうするとLA⇔台湾プライスで東京まで往復が出来る。東京⇔台湾は捨ててもいいし、旅行してきてもいい。
当時は、こんなことが可能だった。
私は、業界の慣習を無視して、ビジネス・ファーストクラスのコミッションを削り、更には東京行きのチケットを台湾行で発券することにより、他社の最大40%OFFのチケットを販売することを思いついた。
何故か、会社の社長が、毎週日曜日に、全く反響のないLAタイムスの三行広告へ出稿していたため、次回の出稿内容を「東京行きビジネス・ファーストクラス最大40%OFF」と変更してみた。
決戦の日
そして、週が明けた月曜日。
私が会社に着くなり、電話が鳴り響いていた。それから夜まで電話が途絶えることが無いくらい問合せが殺到した。その日だけの特需かと思いきや、その状況が一ヶ月続いた。
会社の社長も、その状況に驚き、どうしようか?と言うことになった。
社長(彼女)も手におえない様子だったので、私に販売を任せてもらう代わりに、経費を使わせてもらうことと、利益を私の判断で再投資させて欲しいと伝えた。投資した利益は私と会社で分配しようと提案した。
私の提案はすんなりと受け入れられた。
クレーム処理部隊が、思わぬ利益を上げることになったので、正直パニック状態だったように思う。
早くもビジネスに見切りをつけて、投資へ
私が、再投資を条件にしたのは、ビジネス・ファーストクラスを安く販売していたため、時々上客が事務所を訪ねて来るため、その中の何名かと仲良くなっていた。
テフロン加工で儲けた70歳くらいの社長や、ラスベガスでチケットブローカーをしている女社長など、魅力的な投資先が何件かあった。
しかも、ゲリラ的なディスカウント商法は長続きしそうになかった。既に業界から通常販売に戻すよう通達されていたし、台湾行のチケットを東京行きにして使う方法もそろそろ限界だった。
私は、ラスベガスのチケットブローカーへ投資を申し込んだ。
当時ラスベガスにはチケットブローカーの元締めが2名しかないく、彼女はその一人だった。そして、彼女は昔日本に住んでいたことがあり、更には会社を共同で経営している彼女の息子が私と同じ年だった。
チケットブローカーで資産形成に成功
チケットブローカーとは、日本でいうダフ屋だ(アメリカでは合法で、人気のラスベガスのショーやイベントのチケットを逸早くおさえ、当日に高値で販売していた)そして、その為の資金は様々な投資家から集めていた。私のそのスキームにのることにした。
当時チケットブローカーは儲かった。毎回資金を投じてから半月から一ヶ月で資金が約1.5~2倍になった。気が付くと、私は航空券の販売を諦め、自分の元手をチケットブローカーに突っ込んでいた。
私は1年くらい投資を続け、十分な資金が出来たので、投資から手を引くことにした。厳密には、他の投資に振り替えたのだ。
遂に結婚
当時、私には結婚予定の女性がいて、彼女と一緒に、その時人気だったファンドへ資金をうつした。アメリカではITバブルに火がついて、ファンドが異常なパフォーマンスを出していた。
私の彼女は、アメリカ人でジャーナリストだったが、暫くして仕事を辞めて、投資で生活を始めた。私も同じように何もせずに投資で生活する毎日になっていた。
私の20代も、そろそろ終わりに近付いていた。
私達は、結婚して、暫くして二人で日本へ戻ることになる。当時は何もかもが楽しく、幸せの絶頂だった。そして、この状況が永遠に続くかのように思えた。
実際は、私たちの結婚生活は短期間で最悪の結末を迎えることとなる。
30才を過ぎて、私は再び一文無しになってしまうのだ!
しかしながら、この時は、そんなことは考えもしなかった。人生や幸せのピークがいかに短いものなのかを、私はまだ学んでいなかった。
ロサンゼルスの人達のその後
最悪な結末を迎えたのは私だけではなかったようだ。
旅行代理店は、結局繁栄が続かず、新たなクレーム処理対応に追われることになったようだ。
そして、チケットブローカーは、脱税で税務署の調査をうけることになる。アメリカでは海外取引に関してはCIAの管轄となるため、調査が入った際に会社ごと潰してしまったらしい。
その数年後、彼女の息子が心臓発作でなくなってしまう。私は彼女と一度だけ電話で話す機会があったが、電話口の彼女はずっと泣いていた。
ファンドについては、当時繁栄を極めたファンドの殆どが閉鎖している。
人生は常に儚い
だからと言って、前進することをやめてはいけない。人生には、進み続けることでしか辿り着けない場所があり、また、進み続けることでしか見えない景色があると信じたい。
次回へつづく↓
離婚して全てを失った私が資本金1億円の会社をつくるまでの軌跡 - 自由を求めて、世界を周る