自由を求めて、世界を周る

自由に生きていくためのBlog -自由って案外大変-

ロサンゼルスで航空券の販売をして、人生の儚さを知った話

チャップリンの言葉を思い出す。

人生はクローズアップで見れば悲劇、ロングショットで見れば喜劇

 もしかすると、私の人生のことかもしれない。

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photo by mi..chael

今回は、倒産の後にスペインから帰国した私の人生について書きたい。


実家の倒産、家族の離散から再スタートまでの物語 - 自由を求めて、世界を周る

私がスペインから帰国後、何とか見つけた仕事は、ロサンゼルス空港の近くにある旅行代理店だった。会社が保有している空いた部屋に住み、会社の車で通勤し、朝から晩まで働いて、手取り5万円くらいの契約だったと思う。

今の時代だとブラック企業だ。そういう意味では、私は時代を先取りしていたのかもしれない。

就職先は、ロサンゼルス

当時の日本は大不況で、私を採用してくれる会社はなく、私は二つ返事でLAへ飛んだ。何故そんな私を採用したかと言うと、彼らはクレーム処理要員を探していたのだ。

その旅行代理店は、LAの日系代理店としては大手で、東京にも支社があった。格安航空券販売の走りで、全盛期は月間2億円以上の販売高をほこっていたのだが、競合の増加と過剰投資で倒産寸前だった。

社長は、身内に別会社を作らせて、その会社で金銭トラブルの対応をしようと考えていた。そこへ何も知らない私が、藁をも掴む形相で面接に来た。願ったり叶ったりとはこのことだ。

 

それでも、全盛期に購入したコンドミニアムや車は、まだ使用できる状態だったので、私のLA生活はまんざらでもなかった。

仕事も、狭いオフィスに私しかいない時間が長く(社長は一日数時間会社に来て、航空券の問合せに対応するくらいだった)、私は時々訪ねてくる航空券の卸会社の人と話したり、目の前のコンピューターを叩いて航空券の価格を調べたりしていた。

毎日クレームらしいクレームもなく、私は日々増えていく航空券の知識を振り絞って一ヶ月目で航空券の販売を一人で出来るまでになっていた。

 

そんなある日、私は良からぬことを思いつく。

新たな安売りビジネスで運命を引き寄せる!

当時の航空券業界は、エコノミークラスの利益をギリギリまで削って格安航空券の販売競争をしていた。利益をどこから得ていたかと言うと、ビジネスやファーストクラスだ。ここの利幅で会社が成り立っていた。

そこへシンガポール人が、こっそりと、ビジネス・ファーストクラスの航空券のディスカウント販売をしていることを知った。

その手法はこうだ。航空券は、出発地と到着地で価格が決まる。例えば、LAと東京の往復よりLAと台湾(台北)の往復運賃の方が安いのだ。

そこで私は、LAから東京を経由して台湾行きのチケットを販売することを考えた。そうするとLA⇔台湾プライスで東京まで往復が出来る。東京⇔台湾は捨ててもいいし、旅行してきてもいい。

当時は、こんなことが可能だった。

 

私は、業界の慣習を無視して、ビジネス・ファーストクラスのコミッションを削り、更には東京行きのチケットを台湾行で発券することにより、他社の最大40%OFFのチケットを販売することを思いついた。

何故か、会社の社長が、毎週日曜日に、全く反響のないLAタイムスの三行広告へ出稿していたため、次回の出稿内容を「東京行きビジネス・ファーストクラス最大40%OFF」と変更してみた。

決戦の日

そして、週が明けた月曜日。

私が会社に着くなり、電話が鳴り響いていた。それから夜まで電話が途絶えることが無いくらい問合せが殺到した。その日だけの特需かと思いきや、その状況が一ヶ月続いた。

会社の社長も、その状況に驚き、どうしようか?と言うことになった。

社長(彼女)も手におえない様子だったので、私に販売を任せてもらう代わりに、経費を使わせてもらうことと、利益を私の判断で再投資させて欲しいと伝えた。投資した利益は私と会社で分配しようと提案した。

私の提案はすんなりと受け入れられた。

クレーム処理部隊が、思わぬ利益を上げることになったので、正直パニック状態だったように思う。

早くもビジネスに見切りをつけて、投資へ

私が、再投資を条件にしたのは、ビジネス・ファーストクラスを安く販売していたため、時々上客が事務所を訪ねて来るため、その中の何名かと仲良くなっていた。

テフロン加工で儲けた70歳くらいの社長や、ラスベガスでチケットブローカーをしている女社長など、魅力的な投資先が何件かあった。

しかも、ゲリラ的なディスカウント商法は長続きしそうになかった。既に業界から通常販売に戻すよう通達されていたし、台湾行のチケットを東京行きにして使う方法もそろそろ限界だった。

 

私は、ラスベガスのチケットブローカーへ投資を申し込んだ。

当時ラスベガスにはチケットブローカーの元締めが2名しかないく、彼女はその一人だった。そして、彼女は昔日本に住んでいたことがあり、更には会社を共同で経営している彼女の息子が私と同じ年だった。

チケットブローカーで資産形成に成功

チケットブローカーとは、日本でいうダフ屋だ(アメリカでは合法で、人気のラスベガスのショーやイベントのチケットを逸早くおさえ、当日に高値で販売していた)そして、その為の資金は様々な投資家から集めていた。私のそのスキームにのることにした。

当時チケットブローカーは儲かった。毎回資金を投じてから半月から一ヶ月で資金が約1.5~2倍になった。気が付くと、私は航空券の販売を諦め、自分の元手をチケットブローカーに突っ込んでいた。

私は1年くらい投資を続け、十分な資金が出来たので、投資から手を引くことにした。厳密には、他の投資に振り替えたのだ。

遂に結婚

当時、私には結婚予定の女性がいて、彼女と一緒に、その時人気だったファンド資金をうつした。アメリカではITバブルに火がついて、ファンドが異常なパフォーマンスを出していた。

私の彼女は、アメリカ人でジャーナリストだったが、暫くして仕事を辞めて、投資で生活を始めた。私も同じように何もせずに投資で生活する毎日になっていた。

私の20代も、そろそろ終わりに近付いていた。

 

私達は、結婚して、暫くして二人で日本へ戻ることになる。当時は何もかもが楽しく、幸せの絶頂だった。そして、この状況が永遠に続くかのように思えた。

 

実際は、私たちの結婚生活は短期間で最悪の結末を迎えることとなる。

30才を過ぎて、私は再び一文無しになってしまうのだ!

しかしながら、この時は、そんなことは考えもしなかった。人生や幸せのピークがいかに短いものなのかを、私はまだ学んでいなかった。

 

ロサンゼルスの人達のその後

最悪な結末を迎えたのは私だけではなかったようだ。

旅行代理店は、結局繁栄が続かず、新たなクレーム処理対応に追われることになったようだ。

そして、チケットブローカーは、脱税で税務署の調査をうけることになる。アメリカでは海外取引に関してはCIAの管轄となるため、調査が入った際に会社ごと潰してしまったらしい。

その数年後、彼女の息子が心臓発作でなくなってしまう。私は彼女と一度だけ電話で話す機会があったが、電話口の彼女はずっと泣いていた。

ファンドについては、当時繁栄を極めたファンドの殆どが閉鎖している。

 

人生は常に儚い

だからと言って、前進することをやめてはいけない。人生には、進み続けることでしか辿り着けない場所があり、また、進み続けることでしか見えない景色があると信じたい。

 

次回へつづく↓


離婚して全てを失った私が資本金1億円の会社をつくるまでの軌跡 - 自由を求めて、世界を周る