自由を求めて、世界を周る

自由に生きていくためのBlog -自由って案外大変-

離婚して全てを失った私が資本金1億円の会社をつくるまでの軌跡

http://www.flickr.com/photos/67062881@N02/7267178126

photo by LUIS DE GUIMARÃES

今日は、前回のエントリーの続きを書きます。


ロサンゼルスで航空券の販売をして、人生の儚さを知った話 - 自由を求めて、世界を周る

人生で一番大変だったことは何かと聞かれれば、離婚だと答えるだろう。
そのくらい離婚には膨大なエネルギーが必要だった。

結婚生活

私たち夫婦は、投資中心の生活に移行してから、日本に越して来た。
その後、暫くは静かな時間が流れていた、と思っていたのだが、妻が突然アメリカに戻りたいと言い出した。
やはりジャーナリストとしてのキャリアを積みたかったらしい。
彼女は、飛び級で大学に入って、その後奨学金で大学院を卒業した。
アメリカのジャーナリストは過酷で、アメリカの大統領に質問している記者の年齢を見れば分かる通り、上り詰めるまでに長いキャリアが必要だ。
私と出会った当時は、そんな現実に嫌気がさしていた。
人生は、その時の状況によって思わぬ決断をしてしまうことがある。そして、突然現実に目覚める。
彼女は、きっと全く知らない国で暮らしてみて、目が覚めたのだと思う。
私は、当時の状況がずっと続くことを願っていたし、人生最初の平和な時間を壊したくはなかった。だから、彼女と一緒にアメリカで再チャレンジする気はなかった。
お互いの考え方の違いが、気持ちのずれになり、そのうち修復不可能な状態にまで悪化していった。

離婚

私は、何かの決断を下さないといけないと考えた。

私は、全ての財産を彼女に渡して家を出ることにした。
彼女は、簡単には離婚を承諾してくれなかったが、それでも今後生活するには十分な資産を手にしたので、アメリカへ帰って再びキャリアを積みながら生きていく決断をしたのだと思う。

最後の日、私は自宅のある広尾から渋谷まで、ただ茫然としながら歩いたのを思い出す。言葉にできない何とも言えない感情だった。

殆ど荷物も持たず、所持金は500円しかなかった。渋谷で知人と会ってお金を借りて、その後家族からもお金を借りて、そして都内で新生活を始めた。

ゼロからの再スタート

暫くは、何もできないくらい無気力な状態が続いたが、働かないと食っていけない。私は、次々と仕事の面接に応募していった。
日本では仕事がなく、ロサンゼルスに渡った当時との違いは、日本にもITの波が押し寄せていたことだ。
しかしながら、日本は、私のようにレールを外した人間が簡単に就職できるような社会ではない。私は、いくつも面接を受けて、何とか小さなベンチャー企業に採用された。
設立して間もないIT企業は採用に困っていた。その会社にはシステム部と営業部があったが、スキルのなかった私はどちらの配属からも外され、それ以外の業務(広告や秘書業務や企画など)を行う部署にまわされた。
運が良かったのは、その会社が将来的に上場したことと、私が多少上場の準備にもかかわれたことだ。

転機

当時は、i-modeがものすごい勢いで成長していた。私が就職した会社はPCでメディアを運営していたが、新規事業としてi-modeへも参入した。会社にはモバイルの担当部署がなかった為に、無所属の私が担当となった。
これが、私の転機となった。
i-modeサイトは時代の流れに乗って成功し、私はその実績をもって転職することとなる。

私のようなバックグランドの人間は実績がないとどこも雇ってくれない。その為、転職するチャンスはその実績が最も生かせるタイミングしかない。それがその時だった。
まだ、就職して1年も経っていなかったことと、会社が上場準備に入っていたために、周りからは、何で?と言う意見が多かった。

ITの世界では早く動いた方が勝ちだ、私はそう信じていた。

私が子供だったころの日本は、年功序列、終身雇用を中心としたじっくりと生きていく時代だったが、私が帰国した時の日本は徐々に変化の時代に突入しようとしていた。私がアメリカで体験したIT時代の到来だった。

私は、何の後悔もなく、より大きい会社へ転職していった。
給与は1.5倍以上になった。そして、元大企業だったその会社ではあらゆるスキルを身に着けることができた。契約書からビジネスデベロップメント、会社の分割、合弁、上場と何でも経験できた。

スキルがあって初めて自分の能力を生かすことが出来る。
よく能力とスキルを混同している人を見かける。そういう人は、必ず能力が上手く発揮できていないことを悩むことになる。
自分にどのような能力があって、それをどう生かしたいかによって必要なスキルは変わってくる。もし、自分の能力について何も分からなければ基本的なスキルを順に身に着けておく必要がある。
私は、ITの世界で再びチャンスがあると思い、その為のスキルを身に着けたいと考えていた。

3年かかった。

入社から3年して、私はグループ内の新会社への転籍のタイミングで、会社を辞めることを伝えた。

目的は、独立だ。

独立

自分の能力とスキルを上手く組み合わせることにより社会で食っていくことが出来る。ただし、それだけではより多くの収入を得ることは出来ない。
例えば、スポーツ万能の人間がいたとしても、どのスポーツで、更にはどんな役割やポジションでプロになるかによって、収入が大きく変わってくる。
そうだ、どのフィールドで働くかが重要なのだ。

私は、退職するまでの間に、自分の登る山を見つけていた。
それによって、『能力+スキル+戦う場所=高収入』の方程式が完成したことになる。

私は、独立後、2つのことをした。
一つは、会社を設立して軸となるIT関連の事業を立ち上げる準備を始めた。二つ目は、当時流行り出していたWEB2.0(現在のソーシャルの原型)に関する技術を企画し、その特許を申請した。

このような出始めの概念は、とても曖昧で、みんな手探り状態だ。私はそのタイミングを狙って、特許申請後にプレスリリースを配信した。

1億円を調達する

それから数日後、いつも通りに当時借りていたレンタルオフィスへ出勤すると、伝言が山のように机に並べてあった。全てベンチャーキャピタルなどの投資会社からだ。

何が起こったのか最初は分からなかったが、私のプレスリリースが某有名ポータルサイトのトップニュースに載ったらしい。

私は複数の投資家などと会って、最終的に事業シナジーのある会社数社から1億円近くを調達した。
役員を構成して、社員を採用して新事務所を借り上げて、何もかもが順調だった。一つのことを除いては。。。

会社の終焉

会社は、事業モデルも上手くまわり、資金も潤沢で、一見何の問題もなさそうだったし、投資家も取引先も誰もが上手くいくだろうと考えていた。
ただし、会社には大きな問題があった。

人間関係、コミュニケーションだ。
私を中心に役員間のコミュニケーションが時間と共にずれていった。
その間、会社は成長し、会社を評価するための評価額も5億円以上になった。
私は、その会社の60%以上を保有していた。3億円だ。300万円で設立した会社は1年で100倍になっていた。

 

結果的に会社は2年もたなかった。
私は、会社の解散を株主総会で決める際に、自分を含めた役員の株式を投資家へ譲渡し、そして解散することにした。そうすると株主だけで会社の資産を分配することが出来る。

私のせめてものお詫びだった。
その代償として、私は全ての財産を失った。

その時私は30代の後半に差し掛かっていた。

神様は微笑まない

この日から、私の地獄の残務処理と再起への挑戦が始まる。
この時点では、私は、ただ落胆するだけで、その先にどんな未来が待ち受けているか想像すらできなかった。

人生は、何が起こるか分からないのは今までの経験で理解ていたつもりが、まだ逆転のチャンスが残されていたとは考えもしなかった。

 

チャップリンの言葉に、

人生に必要なものは、夢(希望)と勇気とほんの少しのお金だ。

と言うのがあるが、その時の私は、その中の何一つ持ち合わせてなかった。

 

つづく

※最終話完成


度重なる失敗を乗り越えて、自由を手に入れるまでの話 - 自由を求めて、世界を周る

 

 

広告を非表示にする