実家の倒産、家族の離散から再スタートまでの物語
私の両親は、地方で縫製工場を運営していた。
私が両親に呼び戻されたのは、20代前半で日本とアメリカを行き来していた頃だ。
倒産まで
私が地元に戻って暫くして工場が回らなくなった。小切手の不渡りが原因だ。
当時は、1社が不渡りを出すと、連鎖して関連工場が傾いていった。両親の工場にも不渡りの波が直前まで迫っていた。
ある朝、工場は閉鎖された。
会社の倒産は悲惨だ。特に地方だと他に逃げ場がないため、そこは地獄そのものだ。
閉鎖が決まった日に従業員は怒鳴りだし、近所の人が集まって非難囂々である。時々励ましてくれる同業者が現れるが、彼らが夜中にこっそり工場に忍び込んで金目のものを盗んでいく。
連鎖倒産で、不渡りの影響が来そうな会社の社長が怒鳴り込んできたり、よく分からない借金取りが来たり、挙句の果てには銀行が深夜まで取り立てに来る。
父親は、保証人に土下座してまわり、不渡りの影響で取引先の社長の両親が倒れたと責められる。
そんな状況が閉鎖する直前まで続く。
家族の離散
工場が閉鎖されて、代表者が自己破産すると、弁護士が間に入って、それまでのことが嘘のように静まり返る。その代り、私の両親は全ての財産を失うことになる。
私は社会人だった為に影響は少なかったが、妹は大学を中退せざるおえなかった。
両親は離婚することになった。
そして、父親は弁護士の助言で、債務整理が終わって免責がおりるまで地元を離れることになった。
家族が完全にバラバラになった瞬間だ。当時は、全員が呆然として何も考えられなかった分、悲壮感もなかった。敗戦後の静けさに似ていた。
私は、生きる気力すら失い、何故か遠くへ行きたくなった。
そして、有り金をはたいてスペインに向かった。NYで出会った親友(フェリックス)に会うためだ。
会ってどうするかとか、その後のことは何も考えていなかった。いっそのこと永遠に日本を離れて、誰も知らない地で生きていこうかとも思った。兎に角、すがれるものは、私のNY時代のあの思い出しかなかった。
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何の目的もなくスペインへ向かう
スペインは美しかった。昨日までの地元の出来事が嘘のように皆が笑っていた。
フェリックスの家族も暖かく迎えてくれて、寝食を共にした。
彼は家をたくさん所有していたので、何故かその中の一つが私の泊まる場所となり、食事の際にはみんなが集まる家に呼ばれた。
何より驚いたのは、彼の会社が巨大だったことだ。小さな彼の故郷がそのまま工場のようになっていた。たった3年でここまで大きくしたのか、と考えると、その時の自分の状況と比較して哀れな気持ちになった。
何がそんなに違うのか分からないくらいの大差だった。
私にもお金さえあれば実家があんな状況にはならなかったのに、と痛感させられた。
私とフェリックスはスペイン中を車で旅行し、来シーズン用の商品撮影のためにロンドンに渡り、1ヶ月以上色んな街を巡った。
スペインで初めて観たガウディは圧巻で、またスペインやロンドンの風景や遺跡はアメリカにはない物語を奏でていた。
様々な場所で、色んなものを観て、多くの人と話して、笑顔に接していくうちに、私は自分の考えていることや置かれている状況がとても小さいもののように思えてきた。
ロンドンで小雨に打たれながら、私は日本へ帰る決心をした。
再スタートのために帰国
フェリックスの家族は一生スペインで暮らせと言ってくれたが、流石にそれは難しそうだった。私は、彼の家族とその生活を目の当たりにして、金持ちになろうと決めた。
その為に日本に帰ってやり直す必要がある。
いつの日か、またスペインに戻ってきて、彼の家族に感謝を伝えようと決めた。
私は、帰国後、東京とLAの南にある街に居候しながら、新たな会社で働き始めた。
私は何から始めてよいか分からなかったが、まずは経済と金融の勉強から始めた。片っ端から本を読みまくった。
そして、どうしたら上手くいくのか考えた上に、それを法則にしていった。色んなやり方を試しながら上手くいったことを徐々に積み上げながらロジックにしていった。
私は、スペインで知人の状況を見た瞬間に、偶然では上手くいかないことに気付いていた。
あれから20年近く経つが、上手くいくまでに10年以上掛かった。
なぜ何の保証もないことに10年以上の歳月を費やせたかと言うと、あのスペインでの滞在期間があったからだ。
そして、昨年、私はまたスペインに舞い戻ることができた。遂に当時イメージしていたところまで辿り着けた気がしたからだ。
今では、両親を含む私の家族も、元気な日々を地元でおくっている。
きっとこれで良かったのだと思う。。。