ニューヨークで私は人生の全てを学んだ
19歳の時にグレイハウンドに飛び乗って、カリフォルニアへ向かった私は、その地で大学生活をおくっていた。
19才の時にグレイハウンドでアメリカを横断した話(何故バックパッカーを愛してやまないのか?) - 自由を求めて、世界を周る
19歳だった私はカリフォルニアへ行けば何かがあると思っていた。でも、何もなかった。あったのは普通の学生生活であり、アジアから来た貧乏な学生は誰からも相手にされなかった。
私は、この先に望み通りの未来がないことを十分過ぎるくらい理解していた。
22歳になった私が目指したのは、ニューヨークだった!私にはもうNYしかなかった。理由は覚えていないが、多分世界一の街だったからだろう。
ニューヨーク到着
NYは、とてつもなく巨大で、町の至る所にパワーがみなぎっていた。
ところが、私はマンハッタンの学校へ通う予定が、学費を払った時点で家賃すらない状態になっていた。
スクワット生活
何とかハーレムの南にあるほぼ無償で住めるアパートに入居することができた。
そこは凄いところだった!
誰かが教えてくれた「こういうのをスクワットって言うんだよ」と。その言葉の意味が分かったのは随分後になってからだ。
錆びついた鉄のドアには鍵が3つついていて、コンクリートの部屋にはベッドが1台だけ、窓には鉄格子がはってあった。風呂トイレ共同で刑務所のような佇まいだった。
そのアパートには、まるで映画の住人のような人間が住んでいた。
深夜に最上階の老人が奇声を上げ、毎日のように警察がやってくる。
明け方には上の階のゲイのカップルが大声で喧嘩を始める。
隣の部屋には全身タトゥーのイタリア人女性が住んでいて、勝手にジャンキー共の身体にタトゥーを彫っては、その見返りに麻薬を仕入れていた。
ゲイのカップルは、かなりの年輩だったが、金の為に毎日どちらかが路上で体を売っていた。客がつかないともう一人が怒りだし、客が付くと嫉妬して喧嘩になっていた。つまり毎日喧嘩だ。
最も印象深かったのは、向いの部屋に住んでいた日本人だ。彼は自分をヨコヤマと名乗った。ジャズマンになるために昔NYに来たそうだ。当初は、ステージに立ったりしてそれなりに人気があったようだが、そのうち落ちぶれて、当時は前歯すらなかった。路上でサックスフォンを吹いて日銭を稼いで、それを麻薬に使っていた。
彼のデニムは穴だらけで、死神のように痩せていた。
一見日本人とは思えないが、私が彼を日本人だと知ったのは、日本の出版社が彼を訪ねて来ており、その際に日本語で会話しているのを聞いたためだ。
イーストビレッジで売れなかった当時のマドンナなどと一緒に生活して、音楽をやっていたらしく、昔の話を本にして欲しかったらしい。
しかしながら、ヨコヤマ氏には、そんな気力はなかった。ただ毎日生きているのが精一杯だった。
その後、彼から色んな話を聞かされた。役に立ったことも立たなかったこともあるが、当時の私はNYで売れないアーティストがのたれ死ぬ人生もクールだと思えた。
そんな私の人生を変えさせたのは、ある黒人の死だった。ヨコヤマ氏の友人のジャズマンが朝起きたら路上で死んでいた。NYの夜は寒いため、排気口の暖かい空気の上に寝転がっていると明け方死体となっているケースがよくあるらしい。
そんな状況に直面したことと、バイトが見つかって引っ越しの目処がついたのが同じくらいの時期だった。バイトは毎日何十件もレストランを周って、遂に日本食レストランのウエイターで雇ってもらえることになった。ハウスペイ(1日1ドル)+チップが私の給与だった。
学生寮へ引っ越し
遂に私は、スクワット生活から抜け出し、マンハッタンの逆側にある学生のためのマンションに引っ越した。それは大くて綺麗なビルで住んでいるのがほぼ学生だった。
私は一番狭い部屋を借り上げて、NY生活の再出発を誓った。
人生を変えた出会い
引っ越し初日に夜食を買いに部屋のドアを開けると、向かいの部屋から男が出てきた。私と目が合うと、彼は質問してきた。
「お前は、ハンターか?」
私は質問の意味が分からなかったが、NOと答えた。そして、アーティストだと言った。
彼は、なぜか私を誘って、二人で外の街へ出掛けた。彼はフェリックスと言う名前で、スペインで大学を卒業して、映画を撮りたくてNYに来たらしい。
我々は金もないのに深夜まで一緒にブラブラと街を彷徨っていた。
その後も彼は私の部屋を度々訪れて、色んな話をした。
衝撃だったのは、彼の考え方が、私が今まで日本で学んだ常識やアメリカに来てから学んだことを全て打ち壊した。
何もかもが新鮮で、私は彼の考え方に次第に傾倒していった。
何が特別なのか、何が変わっていたのかまでは分からないが、現在の私の考え方のベースは全てこの時期の彼との会話から来ていることは確かだ。
別れと帰国
そんな彼とは約半年で別れることとなる。
彼の実家(小さな下着縫製工場)が傾いているらしく、その建て直しを託されたらしい。
それから3年で、彼はその縫製工場をヨーロッパ有数の下着メーカにしてしまった。
私は、彼がNYを去った3か月後くらいにアメリカを後にすることになる。
もうアメリカで学ぶことはない気がしたからだ。
NYが教えてくれたこと
私のアメリカ生活は、私の無謀な行動と退屈な学生生活とNYでの出会いに分けられる。私が学校で学んだことは、日本にいたころと同様ほぼ皆無だ。
その代り、私はNYで色んな人と出会い、そして大切なものを学んだ。私の考え方の基本は全てストリートで学んだものだ。
それはブラジル人がストリートでサッカーを学ぶように、私もNYのストリートで人生を学んだ。
それが今の生活に繋がっていると思っている。もし、あの時NYに行かなかったら、私は全く別の人生を歩んでいただろう。
私は、今の人生は悪くないと思っているし、もう一度やり直したとしても同じ人生が良いと考えている。そういう意味では、私が学んだことは間違ってなかった気がする。
全ての出会いに感謝したい!
※その後、フェリックスや当時の友人とは人生の節目節目で会うことになる。