自由を求めて、世界を周る

自由に生きていくためのBlog -自由って案外大変-

アーティストの生き方(ニューヨークに眠るジャズマンの人生)

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ニューヨークは世界一魅力的な街だ。それは、世界中から挑戦者が集まり、敗者となって横たわっているからだ。その上を我々は歩いている。

アーティストという生き方も魅力的だ。私はそれ以上に素敵な人生を知らない。そして、ジャズやブルースの音色も美しい。きっと黒人の悲しみが詰まっているからだろう。

悲しみから美しさが生まれるとは、世の中は皮肉だと思う。


ニューヨークで私は人生の全てを学んだ - 自由を求めて、世界を周る

今日は、そんなニューヨークで出会った一人のジャズマンについて書こうと思う。

以前のエントリーで少し触れたが、彼は私がいつまでたっても忘れられない人間の一人だ。

出会い

私が彼と出会ったのは、ニューヨークのタダ同然のぼろアパートに住み始めたことが切欠だ。

薄暗い部屋に耐えられず、私は日中はずっと玄関前の階段に座っていた。

ある日、そこに日本の出版社の方が訪ねてきた。ある人を探しているのだという。

それが、ヨコヤマ氏だった。

 

私は、彼を見た時に、少し驚いた。長い髪を後ろで結んで、前歯が無くて、顔は痩せこけて、汚いシャツと穴だらけのデニムをはいていた。

どうみても日本人には見えなかったし、一般社会では完全に危険人物に指定されるレベルだった。

 

何故か、その日以来、私はヨコヤマさんと話すようになった。単純に暇だったのと、彼が流暢な日本語を話したからだ。

過去

彼は、厳格で裕福な家庭に育ったそうだ。親は役人で、兄は進学校から東大に入った。彼も同じように進学校から早稲田に進学した。そしてジャズ研に入部したそうだ。それが彼とジャズの出会いである。

日本での毎日に嫌気がさし、親の反対を押し切って、ジャズの本場NYへやってきたそうだ。

確か70年代後半だったと思う。

当時は、街中に自由が溢れていて、NYは何でもありのような場所だったらしい。

そして、売れないミュージシャンとして、イーストビレッジに住むことになる。

 

イーストビレッジとは、アーティストや過激な思想の人間などのどうしようもない人が集まる場所だ。当然金がないので、廃ビルを占拠して、みんなで住むことになる。

まるで、「真夜中のカウボーイ」の世界だ。そう言えば、ヨコヤマさんもよく真夜中のカウボーイの話をしていた。

当時の売れないアーティストは、ほぼイーストビレッジにたむろしていたようで、例えばマドンナなどが代表的だ。

同じアパートに住んでいた年配のホモのカップルは、当時マドンナと一緒に客を取っていたとよく話していた。真意のほどは定かではないが、彼ら(彼女ら)は成功すれば全てが帳消しになるようなことをよく言っていた。

 

そんな無茶苦茶な時代の中でヨコヤマさんは生きてきた。そして、サックスフォンだけで色んな所で演奏し、最終的にステージにも立っていたようだ。

彼は、日本人だから、サックスフォン奏者はメインプレイヤーだから、みんなから嫉妬されたのだと言っていた。それが成功できなかった一つの要因だと。

 

では、他の仕事をしたり、何か別のことを考えれば良かったのに、と思うのだが、彼の思想ではアーティストは働いてはいけないそうだ。。。格好悪いらしい。

 

何れにしてもその当時の時代と彼の生き様を本にしたくて、出版社が訪ねて来ていた。

現在

現在と言っても、20年以上前の当時のことだが(今は生きてないと思う。生きてるとすると60前後だろう)彼は路上でサックスフォンを吹いて僅かな金を稼いでいた。それを全て麻薬につぎ込むので、食費も何も残ってない。

パンのミミなどをサンドイッチを作っている店からもらって来たり、それでも生きる術があることに、当時の私は驚いた。

もう前歯もなく、体力もないので、ステージに復活することは出来ないだろう。それでも、彼はサックスフォンだけは手放さない。命より大切なものなんだと思う。売って金にするくらいなら、一緒に死ぬ覚悟なんだろうと感じた。

 

ある日、2-3日ヨコヤマさんを見かけない時期があった。その後、彼は目に包帯をグルグル巻きにして現れた。

二人組の男に襲われてサックスフォンを盗られたらしい。その際に目にけがをして、その手術をしていたらしい。手術は大学の学生が無償でしてくれるそうだ。ただし、彼らは医者ではない。医者見習いだ。日本だと考えられない仕組みだと思った。

 

その後、ヨコヤマさんはどこかからか古いギターを見つけてきて(多分盗んだのだろう)そのギターを路上で演奏していた。よく理解できないが逞しい。

ヨコヤマさんは、よく「この町にルールはない」と言っていた。生きていればラッキーだと。

 

結局、彼はどこからかサックスフォンを取り戻していた。

彼は、この街に知り合いが多かった。みんな半分ホームレスのような人たちだ。この街で夢に破れた人たちだ。そんな人たちが、ある意味助け合いながら生きていた。

世の中のルールとは別のところに、彼ら独自のルールを引いて生きていた。

別れ

私は、彼から色んな話を聞いたし、彼の生き方に少し憧れたりもした。

何も知らない青年が突然変な宗教に洗脳されるかのように、彼の考えを受け入れてしまった時もあった。

そんなヨコヤマさんと別れる時がやってくる。

その切欠は、ヨコヤマさんの知人のジャズマンの死だった。ある朝、大きな黒人が路上で倒れて、そのまま死体になっていた。

NYの路上では排気口から暖かい空気が上がってくる。寒い夜にその上で寝てしまうと、そのまま心臓が止まってしまうことがよくあるそうだ。

ヨコヤマさんは、彼の死を聞いて少し泣いていた。次は自分かも知れないと、細い目で遠くを見詰めながら話していた。視線の先には彼の故郷(日本)の風景やもう何十年も会っていない家族の姿があるように思えた。

そんな様子を見て、私は現実に引き戻された。そうはなりたくないと思った。

死は、どんな言葉よりも説得力がある。

私には、もっとやりたいことがあるし、その為にNYに来たのだ。

 

丁度その頃、私はアルバイトを見つけて、日払いの給与をもらっていた。

私は、最後の日にヨコヤマさんを誘って、近所のカフェに行った。彼は、エクスプレッソのダブルを注文して、一口で飲み干した。そして、そのまま去って行った。

 

私は、今でもあの小さいエクスプレッソを見ると、ヨコヤマ氏を思い出す。

先日イタリアへ行った時は、ずっとエクスプレッソのダブルを飲んでいた。何だか懐かしい気持ちになったし、少しだけ感謝することも出来た。

 

世の中には色んな人生がある。どの人生が正しいかは分からないし、きっとそういうものではない。ただ、多くの考え方や生き方を許容できる社会であってほしいと思う。

ヨコヤマ氏は、今頃は、きっと満足してNYの街に眠っているだろう。

次にNYへ行く時は、あのハーレムの南にあったぼろアパートを訪ねてみようと思う。