自由を求めて、世界を周る

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最も国民の痛みが少ない日本の再建方法はあるのか?

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昨日のエントリーに続き、最も痛みが少ない日本の再建方法について考えてみます。


今、世界で何が起こっているのか? - 自由を求めて、世界を周る

まず、現在の世界と日本の置かれている状況ですが、

  1. 世界のバランスの変化(先進国が後進国を利用して経済力を保つことができなくなった)
  2. インターネットなどの技術と情報の発達で資本移動が容易になった。
  3. 人権と医療などの発展により、世界の人口が急激に増えている。

その結果、日本国内でパイを奪い合う状況になっています。それが貧富の格差の正体だと考えています。

更に、人口の増加と途上国の成長により日本のパイは更に小さくなるため、今までの政策の延長線上に高度経済成長時のような中間層が分厚い国家形成には至らないと思われます。

日本の問題点

これは簡単です。

日本の借金が多いこと、に加え、毎年大規模な赤字予算を組んでいるため、将来が不安なことです。

借金の原因が少子化なのか高齢者などへの社会保障なのかは問題ではないです。

要は、毎年金が足りないために、みんなが不安になり、経済が停滞し、税収が上がらず、また翌年も金が足りない。こういう負のサイクルになっています。

高度経済成長時は、真逆です。今日より明日の方が良くなりそうだから国民に希望が湧き、経済が更に大きくなっていく、良いサイクルでした。

借金って何?借金により何が起こるの?

日本の借金とは、国債だと考えてください。国家の信用が無くなると、この国債が暴落します。ひいては、通貨(円)が暴落します。

暴落とは、最悪紙くずになって使えなくなります。

最悪な場合は、、ジンバブエ、次にアルゼンチン、そして、ギリシャIMFによる緊縮財政なら韓国が近年このような状況に陥りました。

多分、日本はIMFが入って緊縮財政と既得権の打破が実施されると思います。

解決策はあるのか?

これも簡単で、国家の信用が失墜しなければ良いのです。現在は、日本の国債は国民が買っている(国民の資産と相殺できる)から信用が保たれてます。

信用を担保するのは、その国の資産などとなります。

既に、現在の資産は国債の担保にされているような状態なので、新たな資産を生み出せばよいわけです。

最善策を考える

遂に結論です。

私は、資源国になれば良いと思います。

アメリカが先進国の中で唯一好調なのでシェールガスのお蔭です。ロシアが最悪の経済状況から復活したのも石油や天然ガスです。ブルネイしかり、中東のオイルマネーも同様です。

何の資源が良いのか?また日本に資源はあるのか?

これはエネルギーしかないです。天然ガスや石油です。それ以外では日本の借金は返せないです。

また、天然ガスや石油の良いところは埋蔵量が資産となるため、見つかった時点でバブルのような状態になり、また経済効果抜群です。

自然エネルギーは、コストが高過ぎます。

今後水素ガスなどにより石油の需要が減るかもしれませんが、まだまだ先の話です。

アメリカ同様、100年分の埋蔵量があれば日本は一気に復活します。

そして、日本には、例えば、日本海側にメタンハイドレードのような資源が眠っています。

カナダもアメリカも石油やガスがあることは以前から分かっていたのですが、それを掘るコストと技術開発の結果、今に至っています。日本も同じ状況です。

実行するにあたり何が問題か?

エネルギーは国家の基本戦略です。そこには大きな既得権があります。

石油などの輸入利権はどうなるの?原発利権は?自然エネルギー利権は?など、日本で資源が掘れると全てが吹っ飛びます。

よって、そこに資源があることを目の当たりにする以外に日本での資源開発は難しです。

幸いメタンハイドレード地方自治体の少ない予算で探索しているので、少しずつでも実用化に向けて進めていく費用があります。実用化できれば、一気にそこに金が集まり、経済復興が始まります。

緊縮財政や消費増税に頼らない、国家財政の再建です。

 

日本は民間企業に技術開発力があり、また日本人は必要であれば短期間で事を成し遂げる力があります。

戦後日本が奇跡の復興を成し遂げたように、エネルギー革命により第二の奇跡の復興が始まるでしょう。

今、世界で何が起こっているのか?

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昨日から、ずっと色んな人のブログを読んでました。

少し休憩して、現在の世界と言うか日本などの先進国の置かれている状況について考えてみたいと思います。

 

何が一番変わったのか?

私は世界全体のバランスが変化したことが一番大きな変化だと思っています。それによって、日本など先進国の中間層が失われつつあります。

 

以前は、先進国と後進国が大きく分かれており、後進国からのアドバンテージで先進国の豊かな生活が担保されていたのではないでしょうか。

要するに先進国は、後進国から搾取していたことになります。それを支えていたのが、グローバル企業と後進国の既得権者です。

 

これが、現代ではその差が急速に縮まってきています。

その結果、同じ先進国の中でパイの奪い合いをするしかなく、それが貧富の格差に繋がっているのだと思います。

加えて、インターネットと移動手段の発達による急激なグローバル化キャピタルフライトを容易にしています。そうなると富の再配分すら困難になってきます。

 

これからどうなるのか?

私は、この流れは止まらないどころか、今後加速していくと思います。

企業は、より安い地域へ生産拠点を移し、そして今後伸びそうな市場へ我先に進出していきます。

また、情報や教育の流通も、昔に比べ格段に容易になっています。これらのコストが安くなればなるほど格差は縮まっていきます。

それに加えて、現代は人権の時代です。人口がみるみる増えていくために、食糧や資源など生活のベースとなるものの需要が急速に増えていきます。

その結果、更なるパイの奪い合いが起こります。

 

日本は、もう高度成長期の夢は見れないのだろうか?

経済成長は、全ての不安を打ち消します。

政治家は様々な政策をうっていくはずで、一時的に景気が良くなることはあっても、昔と同じ状況には戻らないです。

世界全体の構造が変化しているので、今までの延長線上に国民が期待している未来はないです。

 

では、日本に策はないのか?と言うと、私は可能性はあると思っています。

第一にやるべきことは、たった一つで、上手くやれば国民の痛みは最小限で済むと思っています。

それについては次回書こうと思っています。

アーティストの生き方(ニューヨークに眠るジャズマンの人生)

Jazz www.flickr.com

 

ニューヨークは世界一魅力的な街だ。それは、世界中から挑戦者が集まり、敗者となって横たわっているからだ。その上を我々は歩いている。

アーティストという生き方も魅力的だ。私はそれ以上に素敵な人生を知らない。そして、ジャズやブルースの音色も美しい。きっと黒人の悲しみが詰まっているからだろう。

悲しみから美しさが生まれるとは、世の中は皮肉だと思う。


ニューヨークで私は人生の全てを学んだ - 自由を求めて、世界を周る

今日は、そんなニューヨークで出会った一人のジャズマンについて書こうと思う。

以前のエントリーで少し触れたが、彼は私がいつまでたっても忘れられない人間の一人だ。

出会い

私が彼と出会ったのは、ニューヨークのタダ同然のぼろアパートに住み始めたことが切欠だ。

薄暗い部屋に耐えられず、私は日中はずっと玄関前の階段に座っていた。

ある日、そこに日本の出版社の方が訪ねてきた。ある人を探しているのだという。

それが、ヨコヤマ氏だった。

 

私は、彼を見た時に、少し驚いた。長い髪を後ろで結んで、前歯が無くて、顔は痩せこけて、汚いシャツと穴だらけのデニムをはいていた。

どうみても日本人には見えなかったし、一般社会では完全に危険人物に指定されるレベルだった。

 

何故か、その日以来、私はヨコヤマさんと話すようになった。単純に暇だったのと、彼が流暢な日本語を話したからだ。

過去

彼は、厳格で裕福な家庭に育ったそうだ。親は役人で、兄は進学校から東大に入った。彼も同じように進学校から早稲田に進学した。そしてジャズ研に入部したそうだ。それが彼とジャズの出会いである。

日本での毎日に嫌気がさし、親の反対を押し切って、ジャズの本場NYへやってきたそうだ。

確か70年代後半だったと思う。

当時は、街中に自由が溢れていて、NYは何でもありのような場所だったらしい。

そして、売れないミュージシャンとして、イーストビレッジに住むことになる。

 

イーストビレッジとは、アーティストや過激な思想の人間などのどうしようもない人が集まる場所だ。当然金がないので、廃ビルを占拠して、みんなで住むことになる。

まるで、「真夜中のカウボーイ」の世界だ。そう言えば、ヨコヤマさんもよく真夜中のカウボーイの話をしていた。

当時の売れないアーティストは、ほぼイーストビレッジにたむろしていたようで、例えばマドンナなどが代表的だ。

同じアパートに住んでいた年配のホモのカップルは、当時マドンナと一緒に客を取っていたとよく話していた。真意のほどは定かではないが、彼ら(彼女ら)は成功すれば全てが帳消しになるようなことをよく言っていた。

 

そんな無茶苦茶な時代の中でヨコヤマさんは生きてきた。そして、サックスフォンだけで色んな所で演奏し、最終的にステージにも立っていたようだ。

彼は、日本人だから、サックスフォン奏者はメインプレイヤーだから、みんなから嫉妬されたのだと言っていた。それが成功できなかった一つの要因だと。

 

では、他の仕事をしたり、何か別のことを考えれば良かったのに、と思うのだが、彼の思想ではアーティストは働いてはいけないそうだ。。。格好悪いらしい。

 

何れにしてもその当時の時代と彼の生き様を本にしたくて、出版社が訪ねて来ていた。

現在

現在と言っても、20年以上前の当時のことだが(今は生きてないと思う。生きてるとすると60前後だろう)彼は路上でサックスフォンを吹いて僅かな金を稼いでいた。それを全て麻薬につぎ込むので、食費も何も残ってない。

パンのミミなどをサンドイッチを作っている店からもらって来たり、それでも生きる術があることに、当時の私は驚いた。

もう前歯もなく、体力もないので、ステージに復活することは出来ないだろう。それでも、彼はサックスフォンだけは手放さない。命より大切なものなんだと思う。売って金にするくらいなら、一緒に死ぬ覚悟なんだろうと感じた。

 

ある日、2-3日ヨコヤマさんを見かけない時期があった。その後、彼は目に包帯をグルグル巻きにして現れた。

二人組の男に襲われてサックスフォンを盗られたらしい。その際に目にけがをして、その手術をしていたらしい。手術は大学の学生が無償でしてくれるそうだ。ただし、彼らは医者ではない。医者見習いだ。日本だと考えられない仕組みだと思った。

 

その後、ヨコヤマさんはどこかからか古いギターを見つけてきて(多分盗んだのだろう)そのギターを路上で演奏していた。よく理解できないが逞しい。

ヨコヤマさんは、よく「この町にルールはない」と言っていた。生きていればラッキーだと。

 

結局、彼はどこからかサックスフォンを取り戻していた。

彼は、この街に知り合いが多かった。みんな半分ホームレスのような人たちだ。この街で夢に破れた人たちだ。そんな人たちが、ある意味助け合いながら生きていた。

世の中のルールとは別のところに、彼ら独自のルールを引いて生きていた。

別れ

私は、彼から色んな話を聞いたし、彼の生き方に少し憧れたりもした。

何も知らない青年が突然変な宗教に洗脳されるかのように、彼の考えを受け入れてしまった時もあった。

そんなヨコヤマさんと別れる時がやってくる。

その切欠は、ヨコヤマさんの知人のジャズマンの死だった。ある朝、大きな黒人が路上で倒れて、そのまま死体になっていた。

NYの路上では排気口から暖かい空気が上がってくる。寒い夜にその上で寝てしまうと、そのまま心臓が止まってしまうことがよくあるそうだ。

ヨコヤマさんは、彼の死を聞いて少し泣いていた。次は自分かも知れないと、細い目で遠くを見詰めながら話していた。視線の先には彼の故郷(日本)の風景やもう何十年も会っていない家族の姿があるように思えた。

そんな様子を見て、私は現実に引き戻された。そうはなりたくないと思った。

死は、どんな言葉よりも説得力がある。

私には、もっとやりたいことがあるし、その為にNYに来たのだ。

 

丁度その頃、私はアルバイトを見つけて、日払いの給与をもらっていた。

私は、最後の日にヨコヤマさんを誘って、近所のカフェに行った。彼は、エクスプレッソのダブルを注文して、一口で飲み干した。そして、そのまま去って行った。

 

私は、今でもあの小さいエクスプレッソを見ると、ヨコヤマ氏を思い出す。

先日イタリアへ行った時は、ずっとエクスプレッソのダブルを飲んでいた。何だか懐かしい気持ちになったし、少しだけ感謝することも出来た。

 

世の中には色んな人生がある。どの人生が正しいかは分からないし、きっとそういうものではない。ただ、多くの考え方や生き方を許容できる社会であってほしいと思う。

ヨコヤマ氏は、今頃は、きっと満足してNYの街に眠っているだろう。

次にNYへ行く時は、あのハーレムの南にあったぼろアパートを訪ねてみようと思う。

 

人生の分岐点で再びのスペイン(出会ったあの頃と同じ位置にいる)

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昨年、私は長年の親友の別荘に滞在していた。


知人の別荘へ向かう - 自由を求めて、世界を周る

久々に再開した彼は、以前と何も変わってなかった。

前回会ったのは10年以上前だったと思う。彼の経営する会社のエキシビジョンの為に来日した時だ。

その前は、私の実家が倒産し、私が逃げるようにスペインへ渡った時だ。


実家の倒産、家族の離散から再スタートまでの物語 - 自由を求めて、世界を周る

 

滅多に会わないが、私は彼の存在を忘れることはない。

最初に出会ったNYで、彼に影響を受け、私の人生は大きく変わった。実家が倒産した時も、私が離婚した時も、彼に助けてもらったり助言をうけたりした。

私にとって、彼はそういう存在である。

偶然の出会いが人生を変える。だから人生は面白いのだと思う。


ニューヨークで私は人生の全てを学んだ - 自由を求めて、世界を周る

 

今回の訪問は、簡単にはいかなかった。

昨年、私はずっと海外を周っていた。ヨーロッパに点在する知人を訪問しながら色んな国を旅行していた。

ちょうどパリでNY時代の旧友と話している時に、スペインのフェリックスの話題になった。そして、会いに行こうとしたが、連絡先が分からなくなっていた。フランス人の知人も同じく彼の連絡先が分からなかった。

 

実は、彼の経営する会社に電話した際に、既にフェリックスが自分の会社を売却済みだと伝えられた。

どうしても連絡を取りたいと話すと、その会社から折り返しがあり、その後フェリックス本人から連絡がきた。

 

私は、すぐにスペインへ飛んだ。

 

彼は、地中海沿いのリゾート地に住んでいた。結婚して、もうすぐ子供が生まれるそうだ。

私は彼の別荘の一つ(ちょうど空いていたコンドミニアム)に泊まった。

 

彼の経営していた会社はヨーロッパでは有名なメーカだ。株主である親族や兄弟とのトラブルが嫌になって、会社を売ったそうだ。その後、スペインのリセッションでなかりの資産を失ったらしい。

現在は、失わずに済んだいくつかの不動産収入で生活している。

多分、彼がもう一度、頂を目指すことはないだろう。今のまま平和にゆっくりと暮らすことがある意味ゴールなんだと思う。

 

私は、今までのエントリーでも書いたが、色々あったが何とかうまくいった。

現在は、そんなに働かなくても、海外旅行をしながらでも生きていける状況になっている。

20年前とは大違いだ。

20年前、私は絶望の淵に居て、彼との差を感じた。今は、何となくNYで最初に出会った頃と同じ位置で話しているような気がする。

また昔に戻ったようでとても懐かしい気持ちになった。

 

我々は、何もない冬のリゾート地で、NY時代のように色んな話をして、そして別れた。

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これからどうなっていくのだろうか?

この先10年、20年と未来は続く。きっと大変なこともあると思う。それでも今までと同じように、また乗り越えられると思う。

そして、我々は再会の度に、ずっと同じ位置で会話していけるようでありたい。

それが私の今のモチベーションとなっている。

 

世界中の、自分の親友に、昔私が苦しかった時に助けてもらったように、何かあれば勇気を与えられる存在でありたい。

そういう人間である為に、日々邁進していく!

 

実家の倒産、家族の離散から再スタートまでの物語

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photo by meltedplastic

私の両親は、地方で縫製工場を運営していた。

私が両親に呼び戻されたのは、20代前半で日本とアメリカを行き来していた頃だ。

倒産まで

私が地元に戻って暫くして工場が回らなくなった。小切手の不渡りが原因だ。

当時は、1社が不渡りを出すと、連鎖して関連工場が傾いていった。両親の工場にも不渡りの波が直前まで迫っていた。

 

ある朝、工場は閉鎖された。

 

会社の倒産は悲惨だ。特に地方だと他に逃げ場がないため、そこは地獄そのものだ。

閉鎖が決まった日に従業員は怒鳴りだし、近所の人が集まって非難囂々である。時々励ましてくれる同業者が現れるが、彼らが夜中にこっそり工場に忍び込んで金目のものを盗んでいく。

連鎖倒産で、不渡りの影響が来そうな会社の社長が怒鳴り込んできたり、よく分からない借金取りが来たり、挙句の果てには銀行が深夜まで取り立てに来る。

父親は、保証人に土下座してまわり、不渡りの影響で取引先の社長の両親が倒れたと責められる。

そんな状況が閉鎖する直前まで続く。

家族の離散

工場が閉鎖されて、代表者が自己破産すると、弁護士が間に入って、それまでのことが嘘のように静まり返る。その代り、私の両親は全ての財産を失うことになる。

私は社会人だった為に影響は少なかったが、妹は大学を中退せざるおえなかった。

両親は離婚することになった。

そして、父親は弁護士の助言で、債務整理が終わって免責がおりるまで地元を離れることになった。

家族が完全にバラバラになった瞬間だ。当時は、全員が呆然として何も考えられなかった分、悲壮感もなかった。敗戦後の静けさに似ていた。

 

私は、生きる気力すら失い、何故か遠くへ行きたくなった。

そして、有り金をはたいてスペインに向かった。NYで出会った親友(フェリックス)に会うためだ。

会ってどうするかとか、その後のことは何も考えていなかった。いっそのこと永遠に日本を離れて、誰も知らない地で生きていこうかとも思った。兎に角、すがれるものは、私のNY時代のあの思い出しかなかった。


ニューヨークで私は人生の全てを学んだ - 自由を求めて、世界を周る

何の目的もなくスペインへ向かう

スペインは美しかった。昨日までの地元の出来事が嘘のように皆が笑っていた。

フェリックスの家族も暖かく迎えてくれて、寝食を共にした。

彼は家をたくさん所有していたので、何故かその中の一つが私の泊まる場所となり、食事の際にはみんなが集まる家に呼ばれた。

何より驚いたのは、彼の会社が巨大だったことだ。小さな彼の故郷がそのまま工場のようになっていた。たった3年でここまで大きくしたのか、と考えると、その時の自分の状況と比較して哀れな気持ちになった。

何がそんなに違うのか分からないくらいの大差だった。

私にもお金さえあれば実家があんな状況にはならなかったのに、と痛感させられた。

 

私とフェリックスはスペイン中を車で旅行し、来シーズン用の商品撮影のためにロンドンに渡り、1ヶ月以上色んな街を巡った。

スペインで初めて観たガウディは圧巻で、またスペインやロンドンの風景や遺跡はアメリカにはない物語を奏でていた。

様々な場所で、色んなものを観て、多くの人と話して、笑顔に接していくうちに、私は自分の考えていることや置かれている状況がとても小さいもののように思えてきた。

 

ロンドンで小雨に打たれながら、私は日本へ帰る決心をした。

再スタートのために帰国

フェリックスの家族は一生スペインで暮らせと言ってくれたが、流石にそれは難しそうだった。私は、彼の家族とその生活を目の当たりにして、金持ちになろうと決めた。

その為に日本に帰ってやり直す必要がある。

いつの日か、またスペインに戻ってきて、彼の家族に感謝を伝えようと決めた。

 

私は、帰国後、東京とLAの南にある街に居候しながら、新たな会社で働き始めた。

私は何から始めてよいか分からなかったが、まずは経済と金融の勉強から始めた。片っ端から本を読みまくった。

そして、どうしたら上手くいくのか考えた上に、それを法則にしていった。色んなやり方を試しながら上手くいったことを徐々に積み上げながらロジックにしていった。

私は、スペインで知人の状況を見た瞬間に、偶然では上手くいかないことに気付いていた。

 

あれから20年近く経つが、上手くいくまでに10年以上掛かった。

なぜ何の保証もないことに10年以上の歳月を費やせたかと言うと、あのスペインでの滞在期間があったからだ。

 

そして、昨年、私はまたスペインに舞い戻ることができた。遂に当時イメージしていたところまで辿り着けた気がしたからだ。

今では、両親を含む私の家族も、元気な日々を地元でおくっている。

 

きっとこれで良かったのだと思う。。。

ニューヨークで私は人生の全てを学んだ

19歳の時にグレイハウンドに飛び乗って、カリフォルニアへ向かった私は、その地で大学生活をおくっていた。


19才の時にグレイハウンドでアメリカを横断した話(何故バックパッカーを愛してやまないのか?) - 自由を求めて、世界を周る

19歳だった私はカリフォルニアへ行けば何かがあると思っていた。でも、何もなかった。あったのは普通の学生生活であり、アジアから来た貧乏な学生は誰からも相手にされなかった。

私は、この先に望み通りの未来がないことを十分過ぎるくらい理解していた。

 

22歳になった私が目指したのは、ニューヨークだった!私にはもうNYしかなかった。理由は覚えていないが、多分世界一の街だったからだろう。

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ニューヨーク到着

NYは、とてつもなく巨大で、町の至る所にパワーがみなぎっていた。

ところが、私はマンハッタンの学校へ通う予定が、学費を払った時点で家賃すらない状態になっていた。

スクワット生活

何とかハーレムの南にあるほぼ無償で住めるアパートに入居することができた。

そこは凄いところだった!

誰かが教えてくれた「こういうのをスクワットって言うんだよ」と。その言葉の意味が分かったのは随分後になってからだ。

 

錆びついた鉄のドアには鍵が3つついていて、コンクリートの部屋にはベッドが1台だけ、窓には鉄格子がはってあった。風呂トイレ共同で刑務所のような佇まいだった。

 

そのアパートには、まるで映画の住人のような人間が住んでいた。

深夜に最上階の老人が奇声を上げ、毎日のように警察がやってくる。

明け方には上の階のゲイのカップルが大声で喧嘩を始める。

隣の部屋には全身タトゥーのイタリア人女性が住んでいて、勝手にジャンキー共の身体にタトゥーを彫っては、その見返りに麻薬を仕入れていた。

ゲイのカップルは、かなりの年輩だったが、金の為に毎日どちらかが路上で体を売っていた。客がつかないともう一人が怒りだし、客が付くと嫉妬して喧嘩になっていた。つまり毎日喧嘩だ。

 

最も印象深かったのは、向いの部屋に住んでいた日本人だ。彼は自分をヨコヤマと名乗った。ジャズマンになるために昔NYに来たそうだ。当初は、ステージに立ったりしてそれなりに人気があったようだが、そのうち落ちぶれて、当時は前歯すらなかった。路上でサックスフォンを吹いて日銭を稼いで、それを麻薬に使っていた。

彼のデニムは穴だらけで、死神のように痩せていた。

一見日本人とは思えないが、私が彼を日本人だと知ったのは、日本の出版社が彼を訪ねて来ており、その際に日本語で会話しているのを聞いたためだ。

イーストビレッジで売れなかった当時のマドンナなどと一緒に生活して、音楽をやっていたらしく、昔の話を本にして欲しかったらしい。

しかしながら、ヨコヤマ氏には、そんな気力はなかった。ただ毎日生きているのが精一杯だった。

その後、彼から色んな話を聞かされた。役に立ったことも立たなかったこともあるが、当時の私はNYで売れないアーティストがのたれ死ぬ人生もクールだと思えた。

 

そんな私の人生を変えさせたのは、ある黒人の死だった。ヨコヤマ氏の友人のジャズマンが朝起きたら路上で死んでいた。NYの夜は寒いため、排気口の暖かい空気の上に寝転がっていると明け方死体となっているケースがよくあるらしい。

そんな状況に直面したことと、バイトが見つかって引っ越しの目処がついたのが同じくらいの時期だった。バイトは毎日何十件もレストランを周って、遂に日本食レストランのウエイターで雇ってもらえることになった。ハウスペイ(1日1ドル)+チップが私の給与だった。

学生寮へ引っ越し

遂に私は、スクワット生活から抜け出し、マンハッタンの逆側にある学生のためのマンションに引っ越した。それは大くて綺麗なビルで住んでいるのがほぼ学生だった。

私は一番狭い部屋を借り上げて、NY生活の再出発を誓った。

人生を変えた出会い

引っ越し初日に夜食を買いに部屋のドアを開けると、向かいの部屋から男が出てきた。私と目が合うと、彼は質問してきた。

「お前は、ハンターか?」

私は質問の意味が分からなかったが、NOと答えた。そして、アーティストだと言った。

彼は、なぜか私を誘って、二人で外の街へ出掛けた。彼はフェリックスと言う名前で、スペインで大学を卒業して、映画を撮りたくてNYに来たらしい。

我々は金もないのに深夜まで一緒にブラブラと街を彷徨っていた。

その後も彼は私の部屋を度々訪れて、色んな話をした。

衝撃だったのは、彼の考え方が、私が今まで日本で学んだ常識やアメリカに来てから学んだことを全て打ち壊した。

何もかもが新鮮で、私は彼の考え方に次第に傾倒していった。

何が特別なのか、何が変わっていたのかまでは分からないが、現在の私の考え方のベースは全てこの時期の彼との会話から来ていることは確かだ。

別れと帰国

そんな彼とは約半年で別れることとなる。

彼の実家(小さな下着縫製工場)が傾いているらしく、その建て直しを託されたらしい。

それから3年で、彼はその縫製工場をヨーロッパ有数の下着メーカにしてしまった。

 

私は、彼がNYを去った3か月後くらいにアメリカを後にすることになる。

もうアメリカで学ぶことはない気がしたからだ。

NYが教えてくれたこと

私のアメリカ生活は、私の無謀な行動と退屈な学生生活とNYでの出会いに分けられる。私が学校で学んだことは、日本にいたころと同様ほぼ皆無だ。

その代り、私はNYで色んな人と出会い、そして大切なものを学んだ。私の考え方の基本は全てストリートで学んだものだ。

それはブラジル人がストリートでサッカーを学ぶように、私もNYのストリートで人生を学んだ。

それが今の生活に繋がっていると思っている。もし、あの時NYに行かなかったら、私は全く別の人生を歩んでいただろう。

私は、今の人生は悪くないと思っているし、もう一度やり直したとしても同じ人生が良いと考えている。そういう意味では、私が学んだことは間違ってなかった気がする。

 

全ての出会いに感謝したい!

 

※その後、フェリックスや当時の友人とは人生の節目節目で会うことになる。

19才の時にグレイハウンドでアメリカを横断した話(何故バックパッカーを愛してやまないのか?)

私は、高校を卒業して直ぐにアメリカのウイスコンシン州へ留学した。

目的は大学へ入る前の語学学校だ。

私は、田舎で育った上に、当時は今と違い海外の情報を得る手段がなかった為に、アメリカを一括りで考えていた。実際のアメリカは巨大で、ウイスコンシンは私の地元より田舎だった。。。

渡米して暫くすると、私は当初想像していた自分の人生と何かが違っている気がした。

 

そして、ある朝、突然、カリフォルニアへ行くことに決めた。

誰にも相談せずに、ハリウッドを目指すことで何かが見つかる気がした。

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photo by Thomas Hawk

私は、カリフォルニアの大学を調べて、学校の手続きをして、その後何を思ったかグレイハウンド・バスの周遊券を購入した。一ヶ月乗り放題のバスチケットだ。

広大なアメリカ大陸を隅々まで走っているグレイハウンドで色んな街を周りながら、最終的にカリフォルニアに着く計画だった。

 

出発当日、私は銀行にあるお金を全額おろして、グレイハウンドに飛び乗った。

当時のグレイハウンドは、最も安い移動手段で、そういった層の人達が利用していた。

私は、わずかな現金しかなかったために、夜バスで移動し、翌朝街について観光して、またバスで移動しながら寝る計画だった。

 

ウイスコンシンから、シカゴのユニオンステーションでアンタッチャブルを思い出し、テネシーのメンフィスでプレスリーの地を訪れ、ニューオリンズでジャズに浸り、ヒューストンでNASAを訪問し、ニューメキシコで真っ白な砂漠(ホワイトサンズ)を訪れ、グランドキャニオンからラスベガス、マウントラッシュモアで大統領の顔を観て、ヨセミテからサンフランシスコ、LAと南下していった。

 

ニューオリンズのフレンチクオーターは街中にJAZZが溢れ、アメリカ文化の魅力に取りつかれた。

ヒューストンでは、間違った市内バスに乗ってしまい、途中から明らかに客層が悪くなっていくのに気付いた。運転手は、一番前に座っていた私に「お前間違ってるだろ?」と何度も問いかけてきたが、私は「NO」と言い続けた。

もし間違っていることがばれたら、どうなるか不安だったからだ。

暫くすると、運転手は全ての客をその場で降ろし、次のバスに連絡し、私をそのバスで目的地(グレイハウンドの駅)まで送ってくれた。

日本では考えられない行動だ!これがアメリカの偉大さなんだと感じた。

未だに、あの時の運転手のことは忘れない。

 

ラスベガスの灯を見た時の感動や最初にカリフォルニアの海を見た時の感激も一生忘れないだろう。

バスも、一週間もすると、最初は怖かった他の客が気軽に話しかけてきた。風呂にも入らず、食事も一日ハンバーガー2個程度で、毎日バスで寝泊まりしていた私は、間違いなくホームレスで、バスの中でも最貧困層だったと思う。

 

グレイハウンドは、よくエンストした。高速の途中でエンストすると、次のバスが来るまで炎天下の中ジッと待つしかなかった。新しいバスが来た時の歓喜の瞬間は、まるでワールドカップで優勝したようだった。

グレイハウンドが走ってない地域では、私は当たり前のようにヒッチハイクしていた。

旅の途中で日本人と出会うと、必ず仲良くなり、次の目的地の情報を教えてもらったり、おごってもらったりもした。

公園のベンチで寝ていると、よく警察に怒られた。同じベンチに寝ているアメリカ人にお勧めの街を聞いて、行ってみると何もなかったりもした。

そんな旅が最高に楽しかった。

 

まだ携帯電話もない時代で、一ヶ月も誰にも連絡せずに旅行していたので、カリフォルニアの大学に着いた時はみんな心配していて、怒られた。

私は周りの心配など全く考えてなかったし、怒られたことすらも心地よかった。

 

初めて、私が自由を味わった一か月間だった。

そこで何を学んだのかは分からないし、どんな経験を積んだのかも分からない。

今でも私は色んな国へ旅行するが、19歳と同じようなことは出来ない。そのせいか、旅先で一人旅のバックパッカーを見かけると愛おしい気持ちにすらなる。

 

私が、自分が自由だと思える瞬間にいることが何よりも幸せだと知ったのは、最近になってからだ。きっと彼らも将来同じ想いにふけるのではないだろうか?