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小学生で亡くなった同級生といじめ問題。いじめを無くす方法を考えてみた

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私が小学校から中学校へあがる年に、校内の生徒が集まる葬儀が行われた。

冬の冷たい雨の中、神父が何かを読み上げる。彼女はいじめられていて、その相談のために教会に通っていた。その為、葬儀もご両親の意向で教会で行うことにしたそうだ。彼女は、取り残された小さい妹を助けるために、火事になった実家へ飛び込んで、そのまま亡くなった。引き留める周りの大人達に向かって、自分はどうなってもいい、学校も楽しくないし、生きていても辛いだけだと言い放ったらしい。結果的に彼女の妹は何とか一命を取り留めたようだ。

そのような話だったと思う。私の地元には大きな教会が無かった為、教会の前の野外にて葬儀が進められた。当時のクラスメイトの女性が次々と手紙のようなものを読み上げていた。中には号泣して手紙を読めない生徒もいた。

私達生徒は大人達の後ろからジッとその様子を眺めていた。彼女の両親はいじめていた生徒を非難する様子もなく、学校も担任の講師も非難されることはなかった。

それから数日後には、まるで何もなかったように平和な日々が戻り、春になるとみんなが中学校へとあがっていった。その後、誰かが処分されたという話も聞かない。これが事故死なのか自殺なのか判断が難しいが、今の時代であれば大きな問題になっていただろう。

 

彼女の両親は、きっと学校の先生に相談していたに違いない。しかし、当時の学校は司法も警察も介入できない完全な聖域だった。他県のことは分からないが、少なくとも私の地元ではそうだった。近年でも、滋賀のいじめによる自殺事件で、警察が学校へ介入した際に、校長か教頭が保護者を集めた説明会の冒頭で警察による介入を非難し、その後ネットなどで叩かれたことは記憶に新しい。昔は、それが当たり前だったのではないだろうか。日教組の価値観で組織化された団体は他人の価値観を受け入れなかったし、全てにおいて保身のために行動していたように思う。

 

では、学校が何もしていなかったのかというと、そうではない。

学校では、道徳やいじめは悪いことだと生徒にホームルームなどで教えていた。

 

いじめは無くなるのか?

子供の社会は大人の縮図だ。世界中どこへ行ってもいじめは存在するし、無くなることはないだろう。大人は、子供たちに向けて訳の分からない道徳論や綺麗事だけで問題を解決しようとする。そうしている間は、いじめはなくならいのではないだろうか。

テレビのコメンテイターも海外の事情や昔のいじめと比べて、現代のいじめが陰湿だとかタチが悪いだとか、何の解決にもならない話しかしない。要するに誰にも解決策がないのだ。

 

どうしたら良いのか?

可能性があるのは、大きく2つだと思う。

1つ目は、いじめを犯罪としてとらえることだ。警察の介入が抑止力になる。大人の社会と同じである。同時に、戦後立法された少年法をそろそろ大胆に改定すべきかもしれない。

2つ目は、いじめられた生徒へ逃げ道を与えてあげることだ。いじめは無くならないし、いじめられている人間は余りにも無力で不利だ。そうなると逃げるしかない。現状では、都市部の場合は私立を含め受け皿がたくさんあるので良いが、地方にはない。その結果不登校になってしまう。不登校の問題は学力の低下だ。いじめられた子は、最悪、意としない教育格差を背負わされることになる。

そこで、地方自治体が受け入れるための学校と通勤などの助成金を支給するか、またはホームスクールを認めるかだ。アメリカやフランスではホームスクールが普及しつつある。家庭教師を雇ってもいいし、親が教えても良い。今であればインターネットを使えばいくらでも授業をうけることが出来る。

ただし、どこまで自由度を出せばよいのか、と言う課題と最終的な生徒の管理や進学相談などの問題があるので、最も簡単なのは、まずは授業毎に教室を変えてしまうことだ。日本の場合は、1年中同じ生徒が同じクラスで行動を共にする。これでは管理は楽かもしれないが、生徒に逃げ場がないし、生徒の中からターゲットが生まれやすい。

海外では授業毎にクラスがバラバラなのでクラス内でのヒエラルキーが作りづらい。その上で、ホームスクールも認めて、定期的にスクーリング(学校へ通う方式)を取り入れれば良いと思う。通信制の大学のような状態だ。

ここには講師の数の問題(公務員利権)や予算の問題(文科省の利権)の壁が立ちはだかるわけだが、そうでもしないといじめられている生徒の人権が守れないのではないだろうか?

 

毎年、冬になると思いだす子供の頃の苦い経験を、何とか後世に引き継がないで良いようにしたいと切に願う。