自由を求めて、世界を周る

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根性論で、日本人は幸せになったのだろうか?落合監督のキャンプの発想が人生が何たるかを教えてくれる

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落合監督のキャンプが面白い!

中日ドラゴンズ落合監督は、選手に沖縄キャンプで球場からホテルまで走って帰るよう指示したそうだ。その距離20KM以上、当時の中日キャンプは誰もが驚くほどの練習量だったので、その後のハーフマラソンは正に地獄だ。

しかし、その際に500円だけ持って行ってもいいよ、しかも何に使ってもいいよ、と言ったらしい。もし自分だったらその金でタクシーを拾うかバスに乗ると考えたかららしいのだが、仮にタクシーだと4人で2千円で約半分の距離まで行けたそうだ。バスなら1時間に1本来るかどうかすら分からないが、相当ホテルの近くまで行けたと思う。

ただし、練習が一段落して疲れている選手は、コンビニで飲料水を買って飲んだり、何か食べたりするそうだ。そうするとホテルへ戻るには走るしかなくなる。

 

バスの時刻表次第では、タクシーに乗って、ホテルについてからいくらでも飲んだり食ったりすれば良いものを、やはり誘惑には負けてしまうのだろうか?

二度三度同じ状況に直面すれば誰でも対応できると思うが、最初から上手い対応が出来る人は少ないように思う。

 

それが落合流の練習なのだ。

 

要するに頭を使えと言うことだ。これは、実際の社会も同じ仕組みだと思う。手持ちの500円の使い方によって、結果が大きく変わってくる。

そういった対処法を身を持って体験して学ばないとプロの世界では通用しないのかもしれない。きっと最初から4人集めてタクシーに乗る人は一部だ。プロの世界も生き残れるのはごく一部なので、こういったことが結果となって表れてしまう世界なのだと思う。ただ厳しい姿勢で、量をこなすだけでなく、必要に応じて考えることを学ばせているところが興味深い。しかも、厳しい状況の中で考える状況を作り出すのは理想的だと思う。

人生で万人に通用する解決策は、唯一、考えることだと断言できる。

 


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お金を稼ぐために最も必要なもの - 自由を求めて、世界を周る

 

根性論は幸せな時代の象徴である

根性論により生まれる美しい物語が、観客を共感させ、感動を呼び込む。それを真似て全国の監督が同じことをやろうとする。根性の大量生産である。その結果、多くの選手が線香花火のように一瞬だけ光って土に落ちていく。

選手寿命と引き換えに、大人たちの作ったスポ根物語を演じさせられていた。

 

これは高校野球でよく見る光景だ。昔は、田舎では大人も子供も皆甲子園に出場する地元のチームを応援していた。日本の高度経済成長時代を象徴する風景である。

それが現在では、海外の情報が簡単に手に入るようになったことと、スポーツ科学の発展により、前衛的で身勝手なスポ根が否定されつつある。今まで表だって異を唱えられなかった元スポーツ関係者も堂々と正論を述べられる時代になった。

 

やっと時代の変化に、業界の常識が追い付いてきた。新しい常識と新しい指導者により次の時代が作られていくのだと思う。我々は、従来の発想や固定観念を捨てて、次の時代に生き残れるような人間にならなくてはならない。

努力する前に、まず考えよう。努力は必要に応じて必要なだけ行えば良い。努力してみて駄目だと思えば、諦めて次を考えれば良い。自分が登る山が決まれば、その山の高さに応じて必要なスキルが決まり、そして自分の現状と比較して何をすべきかが決まってくる。ただ頑張るだけでは報われない。一生懸命頑張れば見返りがあると思うのは勘違い以外の何物でもない。努力の方向性を見極めて、何をすべきかを分かった上で、その為に全力を尽くすのが本当の努力だと思うし、その過程で根性論は不要だ。

まずは考えよう、全てがそれからだ。

日本の社会保障問題を解決してみようと思う

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昨日政治について書いたところ、今までになくアクセスが悪かった為、今日は社会問題について書きたいと思う。日本の社会保障問題について書きたいと思うが、社会保障と一口に言っても範囲が広過ぎるため、その中でも最重要課題である高齢化に伴う社会保障について、その解決策を考えてみたい。

 

高齢化社会の問題点

最大の問題点は、寿命が延びたことだと思う。国が想定していたよりも寿命が延びたために、年金の財源が追い付かないのだ。加えて少子化による若者へのしわ寄せが限界に達しているため、このままでは悪くなる一方だ。

 

明らかに財源が足りていないのは確かだが、高齢者を見捨てるわけにもいかない。今と同等か人によってはそれ以上の老後の生活環境を整える必要がある。ただし、それには何かトレードオフが必要だ。全く妥協せずに待遇の改善のみを望むのは、現状では無理があるだろう。

 

日本は世界で最も成功した社会主義国と言われてきた。人口1億人以上の国で、ほぼ唯一分厚い中間層と小さい貧富の格差により国家を運営してきた。その上で国民保険や国民年金のような福祉を、当たり前のように受けられることが前提で国民生活が成り立っている。

これは、他国から見ると羨ましいくらい理想的な環境だが、それを可能な限り継続していく必要がある。

その為にどうするかを考えていきたい。

 解決策

コストを最大限に削減しながら、医療、介護、交流(コミュニケーション)など全てをまかなう為には、フロリダのような高齢者向けのリゾートがベストだと思う。

九州や沖縄のような暖かい場所に、高齢者向けリゾートを開発し、そこで余生を過ごす。そうするとそこにはまとまった医療や介護システムがあり、コストとクオリティー管理がしやすい。

働く側も、そこへ行けば仕事がある為、若者の雇用創出にもなる。効率的だということは、介護への給与もより多く支払えるということだ。リゾート開発の一環として、労働者の住宅も作ってしまえばよい。最高の住環境を提供できる。

 

現在の地方自治体は、若者を地元へ呼び込むことしか考えていない。高齢者を呼び込み、高齢者向けの市町村を作ろうとしている市長や知事は聞いたことが無い。

フロリダのように高齢者がコミュニティーを作り、老後を過ごすことが出来れば、孤独死の問題なども同時に解決できる。しかも、年数回家族が会いに来るとなると、そこにディズニーワールドのような子供向けの施設が出来ても採算が取れるだろう。

カジノなんかも悪くない。高齢者は時間があるのだ。ラスベガスのビンゴゲームは高齢者だらけだ。

高齢者と言っても、殆どは元気なので、そこで趣味などのグループを構成したり、自分たちで仕事を作って運営するようなことをやれば良い。基本的に労働者も顧客も高齢者のような状況になれば摩擦も少ない。

対象となるエリア自体に予算を付けてしまえば、その予算の中で高齢者リゾートを運営し、潤沢な高齢者の預貯金を上手く活用しながら運営できるはずだ。高齢者の負担を高齢者の資産でまかなうような仕組みが理想だと思う。その分相続による資産移転が減ってしまうが、そもそも大きな資産が移転されるのは富裕層だ。彼らの我慢してもらうしかない。

 注意点

  1. 全員を強制的にリゾートに送り込むことは出来ない。資産があり地元から離れたくない人などは対象外だ。あくまで国の援助がないと生活できない人を対象とし、リゾートへの移転を選択肢にしてもらう。どうするかは本人の自由だが、現状維持のまま社会保障が継続的に提供できるかどうかは分からないことを伝える必要がある。その上で本人に判断しもらえばよい。
  2. 高齢者の数が数十年単位で増減するため、リゾートは増改築しやすく、また縮小しやすい形態にすべきだ。国が作る箱モノのように膨大な予算で必要以上のものを作る必要はない。その為には建築基準見直しなどを、特区として許可する必要がある。
  3. 同時に若者への生活保護社会保障)の問題を解決するのであれば、失業者へ無償で教育訓練を実施し、そのエリアで働ける人材を育成すべきだ。それなりの住居があり、シフト制で無理なく働けるようであれば需要はあると思う。介護以外にも高齢者が求めるサービスはあるので、それらを教育訓練を受けたスタッフで提供すればよい。

 まとめ

高齢者など社会保障を一か所に集めて効率化し、サービスの質を管理できるような態勢でないと、財源の問題と孤独死老老介護悪徳業者の取り締まりを同時に解決できない。

高齢者には、地元で老後を送ることを諦めてもらう必要はあるが、他国では自らリゾート地へ行って余生を過ごすくらいなので、考え方や価値観の問題だと思う。多くの人がこのサービスを利用することにより、安心して引っ越して来れるのではないだろうか。

 年間の社会保障予算が110兆円以上ある。しかも毎年10兆円以上ずつ増加している。これだけの予算があれば何でも出来そうに思う。しかも、少し効率化するだけで、そこに大きな財源が生まれる。それでも国の予算を使えない場合は、ファンドにして民間から資金を集めても良い。高齢者ビジネスは今後の成長分野なので、民間の参入は喜ばれると思うし、資金は世界中から集まってくるはずだ。

 

皆さんは、どう思われますでしょうか?

貧富の格差は議論のすり替えだ!まず必要なのは財源の透明性による既得権の排除ではないだろうか?

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もうすぐ選挙だ。政治家の討論番組を見ていて、違和感を感じるのは議論の争点が貧富の格差に終始していることだ。貧富の格差が広がって貧困層が大変だ、それを何とかしろ、と言う一見正論のような不思議な議論だ。

政府は多額の税金を集めて、それを再配分する。中でも割合が大きいのは社会保障だ。それでも予算が足りずに国債を発行する。要するに借金だ。その上で、更に貧富の格差議論となり、より一層の保障を要求している。今のままだと確実に無理があると思うのだが、誰も抜本改正の議論には踏み切らない。

本日は、その理由を考えてみたい。

 

諸悪の根源は既得権

税制改革を実施しようとすると、必ず議論に上がるのが官僚の問題だ。天下りという巨大な既得権があらゆる改革の前に立ちはだかっており、政治家がどんな法案をあげても、それを実行に移す官僚が、巧みな霞が関文学で自分達の都合の良いように変えてしまう。政治家が権限を行使しようにも、官僚を含む公務員を解雇する権利は彼らにはない。それどころか実質の人事権すらない。その結果、官僚天国になってしまっている。

しかしながら、実際は、官僚が既得権の中心だとすると、そこから派生する天下り先や地方公務員とその天下り先と言うように中心から離れれば離れる程やりたい放題になっている。

 

政治家は何故既得権を排除できないのか?

政治家についても、実は同じ穴のむじな状態だ。いわゆる族議員的な既得権が政治家にもある。

地方の選挙区だと二世や三世などの世襲が当たり前のように行われている。何故有権者がそんな暴挙を許しているのか理解できない。これも地元の権力者との既得権構造ではないだろうか。更に、世襲の問題は、政治団体の不透明な経理と事実上の租税回避にも繋がっている。政治団体を使って、いくらでも税金を回避できる仕組みになっているのだ。

 

では、一見既得権が無いように見える小さい政党はどうだろうか?

議員数削減の際に、比例代表を調整しようとすると社民や共産党のような小さな政党が猛烈に反対する。これも既得権を守る為である。彼らは政治団体を使ってやりたい放題なのだ。次に、その例を挙げてみたい。

 

政党助成金に反対する共産党は、赤旗の営業収入を一切納税していない

代表的なのは、共産党政党助成金に関する議論だ。まず政党助成金は政党の不透明な収入を無くすために立案されたものだ。それに反対するのは良いが、それでは、今問題になっている政治家の文書通信交通滞在費や法律も作っていない議員にも配られている立法事務費はどうだろうか?これらは公然とした裏金のようなものである。何故これらに反対しないのだろうか?

そして、一番の問題は、新聞事業しんぶん赤旗)である。この赤旗の巨額の収入を新聞としての営利事業として納税しないのは一種の脱税である。それは言い過ぎかもしれないが、最も政治団体を都合良く使った集金システムなのは間違いない。

特に、共産党は強力な(半ば脅迫的な)労働組合を各所に抱えている。その為に大手企業や公的な機関は大量の赤旗を発注することになる。そして、赤旗に係る費用は実質票田として有権者への給与として支払われている。

これらの弱者利権(生活保護などの社会保障と組合など)とそれとシンクロした赤旗での膨大な収入が彼らの利権となっている。受かりもしないのに毎回全選挙区に候補者を立てられるほどの資金と立派な持ちビルで優雅に暮らす姿は、山に籠って共産党革命を唱える革命団体とは全くかけ離れている。綺麗ごとだけ言って、中国共産党の幹部のように後は自分達だけ良ければ良いのだろうか?

 

公務員に完璧を求めるのは、公務員のエリート意識への不満と給与水準の高さが原因

日本では公的な機関で無理難題を押し付けている市民が沢山いる。これは公務員への不満の表れではないだろうか?

公務員の中には本当に何もしていない人が沢山いる。しかも外郭団体になると、訪ねて行っても寝てる人も居るくらいだ。そういう人達に一部上場企業並みの給与が支払われている。しかも民間企業と違い解雇が出来ない。

 

私は、タイトルにあるように一旦小さな政府にして余計な支出を排除すべきだと考えているが、その際に問題になるのが失業者対策や働けない人の対策、うつ病などの人への対策などだ。私は、彼らを半公務員的な仕事をあてがうことで対処すべきだと思う。公務員の業務はシステム化していくことにより、かなりの人員を削減でき、業務の簡素化も出来る。その業務の一部を社会保障の対象となる人に与えていけば、公務員の仕事に完璧を求める人も居なくなるのではないだろうか。それが理想的だと思う。

 

既得権を排除できる唯一の方法

現状の中央集権を維持したまま、既得権を排除することは不可能だ。彼らは中央に金がある以上は、ゾンビのように毎回復活してくる。よって、唯一の打開策は、小さな政府にして中央に集まる金を少なくすることだ。または、地方分権にして、金の流れを監視しやすくするしかない。

よく議論される北欧の社会民主主義だが、それらの国は全て人口が少ない。だから金の流れに透明性があり、国民が監視しやすいのだ。

日本も同じ状況を望むのであれば、中央集権のまま小さな政府を目指すか、または地方分権して金の流れを監視できるような透明性を持たせるかのどちらかだと思う。その上で、次の対策(貧富の格差や社会保障)を健全な財政体質の元で議論しない限りは、現在のような既得権者による壮大な茶番劇が繰り返されるだけだ。今の日本を立て直すには、極地論的な政策の非難に終始するのではなく、抜本的な仕組みの見直しを目指すべきでないだろうか?

 

と言うことで、選挙に行きましょう!

ネットワークビジネスで成功した人は今何をしているのか?

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投資活動をしていると、様々なバックグラウンドを持った人と出会うことになる。資産家の家庭に生まれた人以外は、みんな何かで財を築いている。

最も多いのは一発屋芸人のように、時代のいたずらによって成功した人達だ。ただし、この手の人達の多くは、暫くすると居なくなっている。長続きしないのだ。

一発屋が長続きしない理由は、同じことを続けていたら偶発的に時代の流れに乗ってしまい、それを自分の実力と勘違いしてしまうからだ。自分のやっていることと時代がシンクロすると実力以上の結果が出てしまう。

計画的に利益を得ている人は、逆にそのような状況に身を置かないように調整しながら仕事をしている。

 

そんな典型的な一発屋(昔のネットワークビジネス、現在の情報商材システム金融まがいのビジネス)の中にも上手に生き残っている人も存在する。

今日は、その中の一人を紹介したい。

 

 ネットワーク時代

その人をNと呼ぼう。Nはアメリカでネットワークビジネスと出会った。Nが始めたネットワークは、運良く世界的な規模となり、日本にも進出することになる。そのタイミングと合せてNは日本に帰国することになる。所謂パラシュートと呼ばれる手法だ。

日本でNは、有名なネットワークの第一号グループの一人として活動を始めた。

 

Nは、そのスピーチの巧みさと明るい性格と容姿で、次第にネットワークのカリスマとなる。そして、巨大なグループを築き神格化されていった。

当時のNのグループの人達は、Nのことを心から尊敬しているようであったし、Nが引退した今でもネットワークに従事している人達の間では名前が売れている。

 

そんな時期に、私はNと出会った。

私のネットワーカーに対する第一印象は、大変な仕事だな、と言うものだった。情報商材などもそうだが、他人を巻き込んで金を稼ぐビジネスは、自分を大きく見せる必要がある。その為には、費用が掛かる。

ネットワーカーは、その収入に対し、支出が大きく、見た目以上に儲かってなかった。

私のような部外者ですらネットワークビジネスの限界を想像できたし、Nも同じようにいつかは終わるものだと悟っていたと思う。

 

 突然の復帰劇

私とNは徐々に連絡を取らなくなっていった。お互いにそんなに得るものが無かったからかも知れない。その間にネットワークビジネスの時代は終わり、Nは結婚したり、大病を患ったりと、期せずしてネットワーカーを引退することになる。

 

そんな私がNの近況を知ったのは、ある人気セミナーのスピーカーとして活躍しているNの写真を見かけたからだ。そのセミナーは全国で多くの観客を集め、Nは別の分野で神格化されているようだった。

Nは、自分の得意な能力を発揮できる分野を見つけて、そしてネットワーク時代に築いたノウハウを駆使して、新たな成功を掴んでいるかのようにみえた。

こういったケースは、非常に少ない。通常は、一旦落ちた名声は、過去の栄光と一緒に静かに消えていく。

 

自分の能力+スキルやノウハウ+それを発揮できる分野=高収入、の図式だ。これらが見事にマッチすると、ビルゲイツの言うグッドサイクルが回り出す。

Nは、結果的に、一発屋で終わらなかった。

 

N以外にも、ネットワークなどで一度築いた財を失わずに、うまく増やしている投資家もいる。そういう人達は、用心深いし、派手な生活もしていない。

たまに私のところに、高級車を何台も所有し、高級マンションに住み、毎日贅沢な暮らしをしている知人から融資を依頼されることがある。その数ヶ月後には、彼らの多くは消えていなくなっている。そして、二度と名前を聞くこともない。

 

私がNと再会することは、恐らくないだろう。何故ならNは経歴からネットワークビジネスを消し去っているからだ。過去を知る私は、きっと別の人生の別の時代の知り合いなんだろう。過去を忘れてしまうのも一つの生き方だし、私はそれでいいと思う。

多くの人が、日々祝杯を挙げ、暫くすると絶望と共に消えていく。まるでシャンパンの泡のような世の中が、私は好きだ。

そんな世界で果敢に生きていける人間になりたいと常々思っているし、そういう人間には惜しみない拍手をおくりたい。

40歳を過ぎた私が、自分の母親について書こうと思う

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私の人生最初の記憶は、小さな家でカーテンのフックを袋に詰めている様子だ。一つの袋にフックを7つずつ詰めていたと思う。暗い記憶として未だに忘れられない。

当時の私の家は、神社の庭先にある小さな小屋だった。父親はアル中で、働いていた市役所を辞めて、医者からは後数年の命だと宣告されていたようだ。結果的に、酒の量を減らして、現在も生きている。

父は、典型的な昔の父親で、亭主関白で家では何もしなかった。だからと言って、外で稼いでくるわけでもない。

私は夜になると母親に突かれて、カーテンのフック入れの作業を行っていた。私は眠くなるとそのまま寝てしまうが、母は明け方まで内職をし、その後新聞配達をしていた。そして、昼間働いて、夕方は近所の飲食店でバイトしていたそうだ。

元々は呉服屋の7人姉妹の真ん中として育って、父の元へ嫁いできたので、あまりの生活環境の違いに、きっと大変だったと思う。

 

私には妹が二人いるが、二人目の妹を産んだ時点で、母は手術をして、それ以上子供を産まないことにしたそうだ。

 

そんな貧困な時代も、高度成長と共に終わりをつげる。私が小学校に入って暫くすると一軒家に引っ越すことになった。それでも、実家の仕事は安定せず、覚えているだけでも骨董品のようなものを扱う店、新聞配達所、縫製業と職を変えていった。結果的に時代背景もあり、縫製業で生計を立てられるようになった。その頃には父もそれなりに働くようになっていた。

 

その後、父親が新たな場所へ縫製工場を移すと、母は工場を手伝いながら喫茶店を始めた。喫茶店だけでは思うように売上が上がらず、夜に飲み屋もやり始めた。

そのことが切欠かどうか定かではないが、父親と母親の関係が目に見えて悪化していく。二人が離婚したのは、父の倒産が原因だが、当時から既に二人の関係は冷え切っていたのだと思う。

 

それから暫くすると、理由は分からないが、色んな所から両親が自分の子供を私の母に預けるようになる。中学生で既に子供がいるような女性や、地元でも有名な不良の女性などが、私の家に住み始めた。

私は、ある程度年が離れていたせいか、彼女達から教わったことも多かった。彼女達は、自分が後悔していることを事前に私に注意してくれた。最高の反面教師だったのかもしれない。

 

私は高校卒業後、渡米してしまうわけだが、それ以降あまり両親との接点がない。私が生活に困窮していた時にお金を借りたくらいだ。母は何も言わずに大切な預金を切り崩して、貸してくれていた。

私は、実家へも長い間帰っていないし、母と電話で話しても短い会話で切ってしまう。

 

最近、母からどういう訳か、金を送金しろと頻繁に連絡が来る。他の親は息子からいくらもらったとか、そういう話題から始まり、それ以上の額を送金しろと言うわけだ。私はバカらしくて相手にしていないが、もしかすると金の話ではなく単に会話をしたいだけかもしれない。そうやって、照れ隠しをしながら、私の近況を探っているのかもしれない。

 

私の家族は全員素直ではない。典型的な田舎の家庭なので、みんなシャイだ。本音を隠して、何もかもが回りくどい。

 

母は、70才くらいだが、まだ働いている。自宅の1階を飲食店にして、たまに自分も働いているそうだ。ボケ防止には良いと思うが、多分、将来的に長女の仕事場にしたいのだと思う。

次女は結婚して、既に他の籍に入っているが、長女は独身で家にいる。長女の体調の問題もあるので将来が心配のようだ。

私は、遺産を放棄し、長女が全て受け取れるようにする予定だ。

 

そろそろ母も人生のラストスパートなので、思い残すことが無いようにしてほしい。そして、人生最後の日には、辛い人生だったかもしれないが、それでも楽しかったと言ってほしい。

 

今の日本は、母の時代と比べて遥かに良い時代になったと思う。人間の人生は、その時代背景に大きく翻弄される。昔は不幸だったとまでは言わないが、母の結婚当時の生活は私には耐えられないと思う。それでも子供がいたからこそ、その愛情を原動力として毎日を乗り切っていたのだと思う。

 

日本では、一番大切なことを教わらないで大人になってしまう。

それは、人生は大変なことばかりで、楽しいことは1割もない。でも、その1割のために生きていく価値がある、と言うことだ。母は、身をもって、人生の教訓を教えてくれたのかもしれない。振り返れば、母は私にとって、最高の人生の教科書であり、先導者だったのだと思う。

 

田舎者の私は、面と向かっては言えないが、ここに母への感謝の気持ちを込めて文章を残したいと思う。

携帯電話もろくに使えない母が、この記事を読むことはないが、世界の片隅に母の人生と子供からの感謝の文章が転がっているのも悪くないと思う。

 

与えられた環境で最善を尽くして、人生を全うする。そんな素敵な人間に私もなりたい!

 


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一番愛した女性は、思い出のままに

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彼女にとって、全ての男性、または全ての恋愛は“2番”だった。彼女にとっての“1番”は映画であり、その為に大切なものを簡単に手放してきた。それが彼女にとって幸せだったのかどうかは分からない。

 

私が、彼女と最後に会話したのは2年ほど前だ。会話と言っても、顔を見て話したわけではない。声も聞いていない。それはテキストによる会話だった。

とても短いやり取りだったが、彼女がサンフランシスコで少ないお金を遣り繰りして、何とか生きていることは容易に想像が出来た。そんな状況にありながらも、まだ映画を作ろうとしていた。

 

人生は時に諦めることも必要だ。私は彼女に10年以上前からそう言い続けてきた。でも私の言葉は届かなかった。それは私に問題があったのか、彼女の問題なのか、今になっても分からない。

 出会い

私が彼女と会ったのは、私が離婚して、何の希望もなく、ただ食う為だけに生きていた時期だ。彼女は映画関係の仕事で日本に来ており、私達は共通の知人を介して知り合った。

彼女に仕事を聞かれた私は、無職だと答えた。

彼女は映画関係の仕事をしていたが、それは育ての親がアメリカで有名な映画関係者だったからだ。彼女は、ロシアで生まれて途中からアメリカで育った。育ての親のコネクションで映画に係りながら色んな国を飛び回っていた。

私とは雲泥の差だ。まるで接点が見当たらない私を、彼女は一緒にBARへ行こうと誘ってきた。大きなグリーンの瞳が夕日に照らされて輝いていた。

「あなたは他の人と違う気がするから」彼女はそんなことを言っていた。

 

私達はそれから毎日のように会って、二人の時間を過ごした。

彼女が日本に滞在していたのは、たった一ヶ月だったが、私にはそれで十分だった。生きていく理由が見つかった気がした。

 運命の再会

本当に運命だったのだろうか?ただの確率だったのかもしれない。

彼女が帰国してから、私達は全く連絡を取っていなかった。それは取っていなかったのではなく、取れなかったのだ。私は彼女の連絡先を、訳あって無くしてしまっていた。そして、タイミングの悪いことに私が携帯電話を変えてしまい、彼女からも共通の知人からも連絡が取れない状態になっていた。

その日以来、私は理由もなく、時間があれば六本木を歩いた。二人で一緒に歩いた場所を彷徨うように歩いていた。もしかしたら彼女に会えるかもしれないと考えていたのだと思う。

そんなある日、私の後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。

彼女だった!

それを機に、私達は引き寄せられるようにして、一緒に住むようになった。

私は彼女と居ることが何よりも快適だった。それはきっと自分が一番でなくて良いからだったのかもしれない。彼女は、才能の有無は兎も角、アーティストで、映画を作ることが人生の全てだった。私はその隙間を埋める存在で、そのことが二人を心地よい関係にしてくれていた。

 

彼女と私は、数ヶ月ずっと一緒に居て、数ヶ月音沙汰なしで、また気がついたら一緒にいる。このような関係を5年近く続けた。

結末

私は、なぜ彼女と結婚しなかったのだろうか?未だにその理由が分からない。何かを引きずっていたのかもしれないし、単に勇気がなかっただけかもしれない。それともタイミングの問題だったのだろうか?彼女は私と最後に日本で別れて、アメリカに滞在している際に結婚をした。長身の年下のモデルだった。

私は、その報告をうけて、驚きはしたが落胆はしなかった。それよりも結婚生活は上手くいかないと思った。そして、そのことを彼女に伝えた。

 

彼女の結婚生活は1年続かなかった。理由は、彼女の映画への愛情だった。

 

そして、今日までずっとその愛情を捨て切れずにいる。育ての親からのサポートも年々減っていき、自分で本を出したり、撮影した写真を売ったり、自分のブランドの商品を販売したりしながら、僅かなお金を遣り繰りして生活している。

そんな生活が良いとか悪いではなく、昔の彼女の面影は感じなかった。あの本能のまま生きて、無限の可能性を両手に秘めて、内面も外見も誰よりも魅力的だった、私の知っているあの女性ではなかった。

 

20代の時に男性に人気のあった女性は、そのイメージを捨てきれずに30代を迎える。自分が老いていることに気付いた時は、周りにあるもの全てが当時とは変わっているのだ。

男性も似たようなものだが、自分を商品化して売るタイミングを間違えると、人生は思いもよらない結末を迎えることになる。世の中は残酷なのだ。

 

無責任な大人達は、毎日若者に向けて夢について説く。しかしながら、夢を諦めろと主張する人は少ない。そこには一見希望がないように見えるからだ。

目的地に辿り着ける人は、ほんの僅かだ。もし、道に迷ったなら別の道を探せばよい。道に迷ったまま人生を終えるのは、あまりにも虚しい。沢山の未来が道の先にあるにもかかわらず、多くの人は一つの目標に向かって全力で走っている。

今の時代は変化の時代だ。諸突猛進よりも、スイッチを握りしめて考えながら進路を微調整していくことが大切だ。そのことを知らないままに、時間だけが過ぎていく。

思い出のままに

私の一番愛した女性は、現実の世界ではなく、あの日からずっと私の思い出の中で生き続けているのかもしれない。現実は良くも悪くも変わっていくものだが、思い出はピークのまま静かに止まっている。それはどんな名作の名シーンよりも美しい姿をしている。

思い出は美しいまま、私の記憶の中でそっと寄り添って眠っている。

きっと、それでいいのだと思う。

小学生の時に書いた「将来の夢」が人生を変えてくれたのかもしれない

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子供の頃は「夢は何?」「将来何になりたいの?」と聞かれることが多い。大人になると「趣味は何?」と聞かれることが多くなる。

私には夢も趣味もない。昔も今も無かったし、特に必要だと感じることもなかった。

TVなどでコメンテーターが若い人を集めて、夢について語っているのを見かける(NHKの番組のように)あのような夢の押し売りか押し付けは、あざとい気がして仕方ない。夢って何だろう???

 

そんな私も一度だけ夢について書いたことがある。

 

確か、小学校3年生か4年生の頃だ。

当時の先生が、毎年恒例の「夢」について生徒に書かせる授業があった。大体、その年齢だと、医者だったり、公務員、プロ野球選手、サッカー選手、歌手、お花屋さんなど親に押し付けられたものか、またはテレビや近所で見てイメージが良いものが候補に挙がる。

 

私には、そういった具体的なイメージはなかったので、お題が出るや否や、最初に原稿用紙を持って先生の所へ向かった。

 

「これでいいですか?」私は自分の書いた原稿用紙を先生に渡した。

先生はチラッと私の回答を見て、少しだけ頷いた。先生はずっと下を向いていたので、その時の表情は記憶にない。

 

私が机に戻ると、先生は立ち上がって、教室の全員に言った。

「みんな、こういうことを書いてください! 歴史に残る人間になりたい!」

何故そこで先生が全員に夢の在り方を指導したのかは分からないが、私の回答は「歴史に残る人間になりたい」だった。

その時、私は、そういう夢でもいいんだ、と感じたのを思い出す。それまでは具体的な職業を夢として定義されていたのだが、それ以外の回答でも問題ないのだ、しかもそれがより良い回答だという意見もあるようだ、と…

 

理由は分からないが、その時のことが、ずっと忘れられないでいる。当時の記憶はそれ以外何も覚えていない。先生の顔すら覚えていない。

しかしながら、夢に関するたった一つの回答が、私の何かを変えたし、その後の心の支えになっている気がする。

 

たった一つの出来事が人生の羅針盤になることがあるのかもしれない。

一つだけ残念なのは、私が未だに歴史に名前を残せていないことだ。しかしながら、それなりに満足できるところまではいった気がするし、今のところ自分の人生に後悔はない。

「夢」が必要かどうかは分からないが、何か想いのようなものがその人を突き動かしているのは確かなのかも知れない。